皆さん、この1年間本当にお疲れ様でした、ご苦労様でした。毎週の日曜礼拝を守り、教会に仕えてこられた皆さんに心から感謝をします。暑い日も寒い日も教会のために奉仕をしてこられた方々に感謝します。日曜学校の教師の皆さんが毎週礼拝の1時間前に小さな魂のために奉仕をしてくださったことを心から感謝します。すべての人々の献身と祈りによって交野ベタニヤ教会の2024年が守られ支えられました。

 また、職場で汗をかき、子どものため孫のために祈り、幸せな家庭のために頑張った皆さん、本当にお疲れ様でした。悲しみや耐えてしっかり立って来られた方、健康不安を抱えている方、愛する父母を失った方、あなたは悲しみと不安を抱えながらも黙々と信仰を守ってこられました。そのようなあなたを特に主が力強く抱きしめてくださり、新しい力を得て新年を出発されますようにお祈りします。

 皆さんそれぞれが置かれた立場で懸命に1年を生きてきました。教会の中でも外でも、職場でも家庭でも、多くの困難の中にあっても、絶えず努力しながら精一杯生きてこられたと思います。本当にお疲れ様でした。

 ところで、そのような皆さんですが、この年末に誰かから拍手をしてもらったり感謝されたりしたでしょうか。一年間ご苦労様でした。家族のために働いてくださってありがとうございました、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、本当にありがとう。そのような温かい言葉をもらったでしょうか。

 そんな言葉はもらっていない、こんなに頑張ってきたのに、必死で苦しさに耐えてきたのに、私は誰からもほめられもせず感謝されることもないと、どこか悲しいようなもどかしいような思いを心のどこかに持っておられる方が、もしかしたらこの中におられるかもしれません。また、心の中に言いたいこと、弁明したいことがある、という方もおられるかもしれません。

 ところで「弁明」という言葉が存在する理由は、非難や批判が存在するからです。非難や批判がなければ弁明する必要はありません。批判や避難を受ける人が、悔しくてもどかしくて腹が立って、私にも言いたいことがあると思って話し出す、それが弁明です。

 年末を迎える皆さんの心の中はいかがでしょうか。非難や批判を受けた人々は、悔しい思いを晴らすために弁明したいかもしれません。自分がやったことも言ったこともないのに誤解されたり、愛をもって育てた子からせめたてられたり、色々な非難や批判、あるいは誤解に対して、弁明したい方がおられるかもしれません。腹が立つこと、悲しいこと、神様にも人にも言いたいことがある。そんな何とも言えない苦しさ、悔しさ、不都合な感情を、心の中から整理することが、この年末には必要ではないかと思います。感情のゴミをそのまま持って新年を迎えてはなりません。

 そのような人に読んでいただきたい聖書の御言葉があります。この御言葉は、私個人にも大きな悟りを与えてくださり、心を神様に委ねられ平安が与えられました。

 あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕(しもべ)があるとする。その僕(しもべ)が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。僕(しもべ)が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。
 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕(しもべ)です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」(ルカによる福音書17章7-10)

 これはイエス様が語られた「忠実な僕(しもべ)のたとえ」です。今、この話のような主従関係があったなら、おそらく訴えられるでしょう。このたとえ話が語られた時代においては、主人としもべが一緒に食事をすることはなく、主人はしもべに食事の用意をさせて、主人の食事が終わってから、しもべは食事をしていました。けれども、そうであったとしても、イエス様が語られた話の結論、「『わたしたちはふつつかな僕(しもべ)です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」は、いささか厳しい内容にも思われます。この例え話が教える教訓は何でしょうか。

 ここで「ふつつかな」と翻訳されたギリシャ語の原文聖書に用いられている単語は「無価値な」「無益な」という意味を持つ言葉です。無価値で役に立たないしもべであれば、家に置く必要はないので、主人から追い出されるのが本来です。ですから、たとえ話の中のしもべは、心の中で次のように考えていたのはないでしょうか。

「私は無価値で役に立たない主人から追い出されるべき僕に過ぎないのに、主人がそばに置いてくださったのは私を愛しておられるからだ。もし主人が私を無益なしもべとして追い出したならば、私は道端で飢え死にしてしまっただろう。ところが主人は私をこのようにそばに置いてくださり、働かせてくださった。ただ主人の恵みに感謝するのみである」

 私は考えさせられました。そして深い悔い改めの心が与えられました。その深い悔い改めは、私に希望と平安と喜びと感謝の心を抱かせくれました。そして次のような告白と祈りが心の中に自然にわきあがりました。

「主よ、私は主の前で無価値なしもべに過ぎません。役に立たない罪人に過ぎません。しかし、そんな私を今まで牧師として、こんなに足りないものであり無能であるのに、牧師として生きられるようにしてくださいました。そして尊いあなたの聖徒たちと共に御言葉を読み、共に賛美をし、共に信仰生活をするようにしてくださいました。主の恵みのみであり、大いなるあなたの愛であります。
 私には何の力もありません。あなたがその愛の御手をもって今日に至るまで守り導いてくださらなかったならば、私は今日を迎えることはできませんでした。本当に神様、感謝します。感謝の他に言える言葉はありません。弁明やつぶやきはありえません。主が罪と死とサタンの手から守ってくださり、救ってくださった恵みだけで十分です。感謝のみであります。
 たとえ私があなたに捧げ物をしたとしても、主が与えてくださったことの方がもっと多く、今まで苦労した時よりも平安な時、幸せな時がずっと多かった。何の恨みがありましょうか。何の不満がありましょうか。ただ主よ、憐れみの目を持って今の私を見ていてください。」

 このように祈ると、悔しい心は全て消え、もどかしい思いはどこかに行きました。恨みもつぶやきも一切ありません。恥ずかしさと感謝のみであります。「わたしはふつつかな僕です、すべき事をしたに過ぎません」これが、私が2024年の最後に主に捧げる言葉であります。

 愛する皆さん、私たちを救われた神様の恵みを考えましょう。主の家に主の子どもとして僕として召してくださった恵みに感謝しましょう。いくら腹が立っても、いくら悔しくても、十字架にかけられたイエス様と比べられるでしょうか。
 わたしに賜わったもろもろの恵みについて、どうして主に報いることができようか。(詩編116:12)

 今年味わった苦しさ、悲しさ、古い感情をすべて捨てて、喜びと感謝の心で2025年を迎えましょう。来年も主といっしょに進んでいきましょう。一年間本当にお疲れ様でした。来年も、主の恵みと祝福が皆さんと家族の上にありますように祈ります。

以上