アメリカの砂漠地帯を横断したとき、夜空を見上げると星でうめつくされていました。車から降りて、あまりの美しさに驚き、感嘆の声をあげました。人はどのようなとき感嘆するでしょうか? それは予想を超えたときです。人生が計算通りに行けば楽しみは少ないでしょう。感謝なことに私たちの神様は私たちの予想や計算を超えることをなさいます。弱者である少年ダビデが強者である巨人ゴリアテに勝つようにされ、死ぬべき罪びとであった私たちを罪から救い出してくださいました。予想や計算、常識を超越することを神の奇跡と言い、また神の恵みと言います。ここに神様を信じる楽しみがあります。すべてが計算通りになるなら、神様を信じる楽しみはないと言っていいでしょう。驚きは恵みへの入り口です。もしも主にあって驚くことがあったなら、あなたは恵みの入り口に立っているのです。

 イエス・キリストの誕生はそれ自体が奇跡ですが、ご生誕の前後に、多くの驚きの出来事があったことがルカの福音書1章に記録されています。

 まず、祭司ザカリヤとその妻エリザベツに驚くべきことが起きました。この夫婦はふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていましたが(6節)、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていました(7節)。ザカリヤが祭司の務めとして聖所にはいって香をたいていると、主の御使が現れて、香壇の右に立ったのです(11節)。ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われました(12節)。御使いはザカリヤにこう告げました。「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい」(13節)。

 このようにイエス様のご生誕は、ひとりの祭司の驚きと恐れの念から始まりました。御使いが現れたのも驚くべきことですが、年老いた夫婦に息子が生まれること、その息子がイザヤの預言した救い主の先駆者として多くの民を導く者になるとの御使いの言葉はもっと驚くべきことでした。

 その次に驚いた人はマリヤでした。御使いガブリエルがマリヤにあらわれて驚くべきことが告げられました。「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」(28節)この言葉を聞いたマリヤは胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていました(29節)ここで「ひどく胸騒ぎがした」と訳されている箇所は、ギリシャ語の原文では「ひどく心が動揺する」という意味の語が用いられています。相当な驚きであったのでしょう。ところが、マリヤの驚きはこれだけで終わりませんでした。マリヤは結婚していなかったのです。「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」(34節)。処女である自身が子を産むなど不可能でしょうという驚きでした。

 このようにイエス・キリストのご生誕の出来事は、人間の予想をはるかに超えたできごとの連続でした。そもそも神であるお方が受肉してこの世に来られることそのものが、想像を超えた驚くべき奇跡であり、まさに全人類への大きな恵みであります。

 神様を体験することは合理的な理論で説明することはできません。少年ダビデが巨人ゴリアテに勝ったのは合理的な計算の結果ではなく神の力と恵みの結果です。五旬節に聖霊がくだり、そのあと屋根裏部屋にかくれていた弟子たちが広場に出て大胆にイエスの十字架と復活を語るようになったこと、美しい門の前にいた生まれながらの足の不自由な物乞いが立ち上がって飛び跳ねて歩くようになったこと、罪びとであったサウロがパウロという新しい人に変えられたこと、すべて常識と予想を超えた出来事です。今日のような寒い日にも教会に来て礼拝をささげる皆さんの心も、神様の驚くべ恵みを体験した結果であります。みんながこの聖なる驚きを体験できますようにと願います。

 皆さんが理性の範囲にとどまらないで、神様のすばらしい驚くべき世界を味わわれることを願います。そして、神様の存在を肌で感じ体験されることを、自分自身が神様と結ばれていることにもっと驚いて喜ぶことができますようにと心から願います。エゼキエルに天を開いて幻を見せてくださった神様が、私たちを神様の偉大で驚異的な世界へと導いてくださることを願います。

 今日は、コンピューターが正確に計算したとおりに動く時代です。正確でありどこか息苦しい。このような生活を続けているといつの間にか神様の偉大さに驚く機会が失われていきます。このような時代の中で、イエスの十字架を通して罪びとである私たちが救われたことの感動を味わうことができるのは大きな恵みであります。信仰生活の中に驚きがありますように、また恵みに驚嘆して心の底からにじみ出る讃美が主の前で満ち溢れますように祈ります。聖歌229番の題名は「おどろくばかりの」です。英語ではアメイジング・グレイスです。讃美するときにあまり驚くことがないなら、自分は当然に救われるべき資格があると思っているのかもしれません。

 イエス様は驚くべき方法でこの世に来られ、病を癒すことで病に苦しむ人々を驚かせ、死人をよみがえらせることで死んだらすべてが終わりと思う人々を驚かせ、律法学者たちより圧倒的な権威をもって語ることによって人々を驚かせ、十字架の愛を示すことで驚かせ、復活することによって驚かせました。そして、いつの日か雲に乗って再臨されることで人々を驚かせるでしょう。キリスト教信仰には、このような驚きと感嘆が満ち満ちています。神様、私をもっと驚かせてください!神様の驚くばかりの恵みに出会わせてください!

 私も来年は70歳です。神様に「70代も健康でありますように、そして80代も元気に過ごせますように」と祈った時、神様が「それでいいのか?」と語られました。そこで「私を40代のように生かしてください!」と祈りました。そして神様の長寿の約束を信じて120歳まで生きようと、できるかどうかは神様にまかせますけれども、120歳を目標に歩き出しました。まだまだ体力もあり元気です。朝から晩まで足に2キロずつ重りをつけて生活しています。そうすると、つまずかないんです。夜に重りをとったら足が軽いこと軽いこと。驚くべきことが皆さんの身にありますように心から願います。

 神様は、驚くばかりの恵みと奇跡と大きな愛で、私たちを天国まで導いてくださいます。信仰とは「神様に驚かされる準備ができている」ことです。神様が私たちのために、どんな素晴らしいこと、信じられないようなことをなさるか期待し、そして現実に体験されるように心から願います。驚く準備をしながら生きてまいりましょう。

以上