待降節(キリストの誕生を待ち望む期間)に入りました。イエス・キリストは今から約2000年前に地上に来られましたが、今も私たちのところに来ておられます。ですから私たちはイエス様をどのようにお迎えするべきか、その方法を知らなければなりません。本日の聖書箇所に記された、イエス様を迎えたゲネサレ地方の人たちの姿からそれを学びたいと思います。
ゲネサレはガリラヤ湖の北西から南に広がる肥沃な平野地帯で、ヤシ、イチジク、オリーブ、クルミ、ブドウなど豊富な収穫物とガリラヤ湖から獲れる海の幸に恵まれていました。イエスと弟子たちを乗せた舟がゲネサレの地に着いた時の様子が次のように記されています。
彼らは海を渡り、ゲネサレの地に着いて舟をつないだ。そして舟からあがると、人々はすぐイエスと知って、その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた。そして、村でも町でも部落でも、イエスがはいって行かれる所では、病人たちをその広場におき、せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いした。(マルコによる福音書6:53-56)
遠目には平和で裕福なゲネサレの地にも病に苦しむ人々がたくさんいたのです。私たちも同じです。一見、何の問題もなく平安に生きているように見えても、実際には病に苦しむ人、わが子の問題のために眠れないほど心を痛めている人、明日の不安を抱えて誰もいないところで涙を流す人、そのような方々は少なくありません。
そのような人々のところにイエス様が来られました。ゲネサレの人々はイエス様がどんな方かよく知っていました。「人々はすぐイエスと知って」とありますが、原文のギリシャ語では、単に知っているのではなく「とてもよく知っている」という意味の言葉が用いられています。おそらく彼らは、屋根をはいで穴をあけて担架に寝かせたままイエスの前につりおろして中風が癒された人の話(マルコによる福音書2:1-12)や、長血をわずらった女性がイエスの衣にさわるとたちまち癒された話(マルコによる福音書5:25-34)を聞いていたのでしょう、イエス様が病を治療してくださる方であることをよく知っていたのです。
その驚くべきイエス様が来られたと知った彼らは、駆けめぐってイエス様が来られたことを触れ回り、イエスがおられる所どこへでも病人を担架にのせて運び、せめて上着のふさにでも触らせてほしいとお願いしました。イエス様は彼らの熱い想いに応答され、「さわった者は皆いやされた」のでした。(マルコによる福音書6:56)
みなさん、恐れや苦しみからの解決策はただ一つです。イエス様の前に出ることです。イエス様のもとに駆けていきましょう。待降節を迎え、声をあげて叫びたいのです。イエス様の前に進み出て、イエス様を心の王座にお迎えし、神様の子どもになられますように!
彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。(ヨハネによる福音書1:12)
からだの痛みも、心の苦しみも、子どもの問題も、すべての問題を持ったまま、あるがままの姿でイエス様の前に進み出て、すべてをゆだねてください。この世の問題だけではなく、死の問題もゆだねてください。イエス様は死さえも解決し永遠の命へと導いてくださるお方です。病気が癒されたとしても地上で永遠に生きることはありません。世を離れる日がいつか必ず来ます。その日は意外に早いのです。
だから躊躇してはなりません。もう少し気持ちを整理してから、落ち着いてから、時が来たら…。そのような思いがあるかもしれません。しかし、イエス様は私たちが置かれている環境をもうすでに知っておられます。知っているゆえに来られたのです。人の目を気にする必要はありません。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)と言われる主だけをまっすぐに見て近づきましょう。
そして「せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたい」そのような熱望をもって手を伸ばしてください。そうすれば「さわった者は皆いやされた」ように、私たちもイエス様を通して新しくされるでしょう。希望が生まれるでしょう。慰めが与えられるでしょう。問題を抱えたままの姿、不安なままの姿、傷ついた心のまま、けがれた心のままでいいのです。ありのままの姿で進み出て手を伸ばすこと、これがイエス様をお迎えする最高の方法であります。
今年のクリスマスは、自分ひとりだけではなく他の人と共にイエス様の前に出ていきましょう。ゲネサレの人々がくまなく触れ回ったように、私たちも家族や隣人を教会にさそいましょう。そして共にイエス様を心の王座にお迎えして、皆が喜びに満たされますようにと心から願います。
以上