使徒パウロは、新約聖書に収録されている13通の手紙を書いた人物であり、初代教会最大の宣教者です。彼は命がけでキリストの福音をのべ伝えました。しかし、初めからそのような情熱を持っていたわけではなく、むしろ福音を恥と思い、世の中から福音を取り除くべきと考えていました。パウロはたいへんな知識人であったので、処女降誕、死人の復活、死後の裁きなどを説くキリストの教えは耐え難いほど非論理で恥ずかしいものだったのです。
また、キリスト教が「全ての人は罪びとである」と決めつけていることもパウロの自尊心を傷つけました。彼はユダヤ教の律法を厳格に守り、自分は誰よりも正しいと信じていたからです。
ただで救いを受けられると教えていることもパウロにとって大きな問題でした。しかもその救いには、罪のゆるしと、神の子どもになる特権と、さらに天国での永遠の命までが含まれていたので、そのようなものすごいものを、ただで得られることは律法を徹底的に学んできた彼の良心がゆるさないことであり到底受け入れられないことでした。彼はキリスト教徒を迫害し、見つけては捕らえていました。
今日、多くの方々が福音に不便さを感じています。愛しなさい、ゆるしなさい、分け与えなさい、片方の頬を打たれたら反対の頬も出しなさい、敵さえも愛しなさい、などと教える福音ではとてもじゃないが弱肉強食ともいえる世間を渡ることなど出来ないと思ってしまうのも不思議ではありません。クリスチャンになったあとも相変わらず福音が恥ずかしくて職場などでクリスチャンであることを隠そうとする人もいます。
ところが、福音を恥ずかしいと思っていたパウロがある日を境に正反対に変わりました。彼はこう言っています。わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。(ローマ人への手紙1:14-16)
「恥としない」と言う言葉は消極的に恥としないという段階を超えて、私は積極的に確信しているという意味であると思います。パウロは全ての人に福音を宣言し、異邦人の町でも福音をのべ伝え、総督の前でも王たちの前でも堂々と福音を語りました。パウロよ、あなたは気でも狂っているのかと言われるほど彼は大きく変わったのです。どのようして彼が変えられたのか、その顛末が使徒行伝の中で具体的に記されています。(パウロはもともとサウロという名でした。)
さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者(注:クリスチャンのことです)を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。
ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。
サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。
さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。
そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。
これを聞いた人たちはみな非常に驚いて言った、「あれは、エルサレムでこの名をとなえる者たちを苦しめた男ではないか。その上ここにやってきたのも、彼らを縛りあげて、祭司長たちのところへひっぱって行くためではなかったか」。しかし、サウロはますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた。
私の弟も、イエス様を絶対に信じようとしませんでしたが、ある日突然クリスチャンになりました。それまでずっとクリスチャンが嫌いだと言って、弟以外の家族は全員教会に通っていたのに彼一人だけ一切信じようとせず、母が教会に一緒に行こうと誘うと「言うな!」と叫んで拒否し続けました。長い間、母は祈りましたがついに母が亡くなるまで教会に一緒に行くことはありませんでした。しかし、母が亡くなる日、弟が母のそばで母を見つめて立っていると突然病室が真っ白に明るくなって、天使たちが母を迎えに来るのをはっきり見たのだそうです。その日から、弟はクリスチャンになりました。そして、家族全員を連れて教会に行くようになりました。弟はアメリカで大きな成功を収めましたが、今は早く会社を辞めて貧しい人たちのために奉仕をしたいと言っています。
パウロは、十字架で死んだと考えていたイエスに、復活したイエスに出会ったのです。そして、自分自身が罪びとであることと、罪から救われたことを悟りました。律法的に自分は完全な義人であると自負していた彼が、神なるキリストを迫害するという世の中で最も悪い罪びとであることを知るようになり、そのような自分がゆるされ、受け入れられ、新しくされたことを知り感激しました。温かい声で「サウロよなぜ私を迫害するのか」と言われる神の愛に屈服して、彼は新しく生まれたのです。パウロの言葉です。私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(テモテへの手紙第一1:13-17)<新改訳聖書2017>
先日、教会員のNさんのお父様の葬儀に参列しました。その時にNさんの弟さんにお会いしました。福音を伝えたいと思いましたが、やはり心に躊躇する思いがありました。「神様を信じなさい」と突然言っても相手は受け入れないし、私もそういう勇気もないし。ただ一言、「教会に行ってくださいね」とだけ言いました。あとでNさんから、弟が牧師先生に教会に行って下さいねと言われたと言ってました、と聞きました。たった一言が心に残っているんですね。あとのことは神様が責任を持ってくださいます。みなさんにも躊躇する心があるかと思います。家族にもなかなか言えない。でも、「教会に行ってくれたら嬉しいな」その一言にきっと神様が働いてくださいます。
たしかに福音は伝えにくいし、論理的に理解するのが難しいものです。しかし、救いの力はそこにあります。論理は人を救うことはできません。「罪びとは、罰を受けて死ぬべきである」これは論理的には正しいかもしれません。しかし希望を与えません。「死んだ者とは決して二度と会えない」という論理は絶望を与えます。しかし、死人は復活する、天国で再開できる、という福音は希望を与えます。論理や常識ではなく全能なる神の愛の前に膝をかがめるとき、真の自由と救いを受けるようになります。みなさんが、このような福音の祝福の前に進み出てくださることを願います。
イエス様はこう語られました。「邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。(マルコによる福音書8:38)
福音を恥としないならば救いを受けるでしょう。神様の愛は永遠です。嘲笑いの声と世の誘惑の中で私たちを救う真理は福音だけです。今日は収穫感謝の主日を迎えましたが、私たちが神様におささげできる最大の感謝は福音を与えて下さったことへの感謝です。みなさんとみなさんの家族全員が、福音を信じて永遠の命の救いを得られますようにと心から祈ります。
以上