本日の礼拝では年に一度の「子ども祝福式」を行います。今日は「子どもになる方法」をお話したいと思います。ある時、イエスの弟子たちがイエスにこう質問しました。「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。(マタイによる福音書18:1) 多くの人は地位の高い偉い人になりたいと願います。イエスの弟子たちも、自分が天国で一番偉くなりたいと願っていたのでこのような質問をイエスに投げかけたのです。これに対しイエスは、幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせてこう答えました。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」(マタイによる福音書18:2-4)

 イエスの答えをよく見ると、一つの質問に対して、二つの回答をされています。
  ①心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない
  ②この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉い

 ①の回答は「だれがいちばん偉いのか」という問いと嚙み合っておらず、イエスは天国に入ることが出来る/出来ないを語っておられます。イエスがこのような回答をされた理由は、天国で偉い者になる以前に必要なのは、天国に入ることだからです。では、天国に入るための方法である「心をいれかえて幼な子のようになる」とは、どのような意味でしょうか。それは②の答えから「自分を低くする」ことであると考えるなら、それは誤りです。なぜなら②は「天国ではいちばん偉いのである」と結んでいるからです。

 それでは「心をいれかえて幼な子のようになる」という言葉の意味をどう理解すればいいでしょうか。その答えは聖書の他の箇所を参考にすれば分かります。
 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。(ヨハネによる福音書3:1-3)

 このようにイエスは神の国を見る、すなわち天国に入るには新しく生まれなければならないと言っておられます。新しく生まれるとはどういう意味でしょうか。英語の聖書では「ボーン・アゲン」という言葉が使われています。ボーン(born)は生まれる、アゲン(again)は再びという意味です。ここに幼な子のようになるための秘訣があります。再び生まれれば赤ちゃんになります。ですから「幼な子のようになる」とは「再び生まれる」「新しい人になる」と理解することができます。

 それでは具体的にどうすれば「ボーン・アゲン」することができるでしょうか。ニコデモはその方法が分からなかったので当惑してイエスにこんな質問をしました。「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」(同3:4)

 確かに、すでに大人になった人がお母さんのおなかに入って再び生まれるなど不可能です。ニコデモにイエスがこう答えます。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊(みたま)によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生れた者は肉です。御霊によって生れる者は霊です。」(同3:5-6)<新改訳2017>

 水によって生まれるとは母の胎から生まれる誕生であり、御霊によって生まれるとは聖霊の働きによってイエス・キリストを信じて神の子どもになることです。そして、このような生まれかわりは少しずつ変化していく過程ではありません。「心をいれかえて幼な子のようになる」「心をいれかえて」は、瞬間的で決定的な方向転換を意味する言葉なのです。聖霊の衝撃的な働きを通して起きる変革がボーン・アゲンなのであって、少しずつ時間をかけて良い人に変わるとか、努力や苦行で徐々に素直さや謙遜さを修得するといった方法ではないということを知っておくべきです。

 けれども多くの人が、幼な子のように「自分を低くする者」にならなければ「天国にはいることはできない」と誤って解釈しています。そのため「もっと低くなりなさい、謙遜になりなさい、そうすれば天国に入れます」などと説明し、さらに勝手に言葉を付け加えて「天国に入りたければ、子どものように欲を捨てて素直になりなさい、良い子になりなさい、良き聖徒となりなさい」と言われることもあります。

 しかし、そもそも子どもは自分を低くした素直で良い人なのでしょうか。先日、私の孫がハロウィンのパーティがあると楽しみにしていたのですが、中止になったと暗い顔をしていました。わけを聞くと「お前死ね」という紙を誰かがカバンに入れて、被害にあった子が苦しんで登校もできないという事件が学校であったのだそうです。子どもの時に、いじめを受けて心傷つき大人になってもその傷がいえないという人は少なくありません。子どもたちが大人の前で静かなのは謙遜で低くしているからでなく、大人より力が弱いから黙っているだけなのです。子どもであっても時には意地悪でずるがしこくウソも言います。子どもも小さな罪びとにすぎません。天国に入るのは唯一神様の愛と恵みと聖霊の助けによってイエス・キリストを救い主として信じ、新しき人になったときに可能なのです。

 以上の話を理解した私たちは、②の答え「この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」を簡単に理解することができます。②は①から自然に導き出される当然の結果と言えるでしょう。つまり、真に生まれ変わった人は、自分自身が亡びるのが当然の罪びとであることをよく知っているので、パウロのように、私は「聖徒たちのうちで最も小さい者」であり「この世の屑(くず)」「罪びとの頭(かしら)」であると思っているので、自分が出会う全ての人の前で自分を低くするのです。

 人は、天国に入るひとと、入れないひとに分かれます。入れるか入れないか二つに一つであり、天国の民でないなら地獄の民となるしかありません。地獄は一番みじめで低いところです。天国に入る者はみんなが一番偉い人です。ボーン・アゲンした人は誰もが自分を低くし謙遜なので、天国で一番偉い者の資格を神様から与えられるのです。それだけでなく天国では神様が私たちの父親となってくださり祝福してくださいます。みなさんがボーン・アゲンすることを願います。天国に入る救いは自分の努力で得られるものではないことを知り、より謙遜になれますようにと心から祈ります。

以上