私の母は熱心なクリスチャンでした。母はイエス様を信じて救われてからは、家族の救いのために祈り続けました。そして父も姉も私もイエス様を信じるようになりました。しかし、私の弟だけは信じようとしませんでした。弟は母に連れられて中学1年でアメリカに渡り、言葉もできず苦労しました。頼りにしていた叔父が突然の交通事故で亡くなったため、母たちはどん底の生活をするようになりました。
そのような苦しみの中を弟は懸命に生きたので、いつしかお金がすべてという思いを持つようになっていました。そんな弟は、母が教会に一緒に行こうと誘うとすぐ怒り出し、決して神様を信じようとはしませんでした。弟は徹底的にこの世の富を追求し、とうとうアメリカで高い地位に昇りつめました。しかし彼は兄である私を兄とも呼ばず、自分以外は誰も信じない冷たい人間になっていました。
そんな弟が突然、神様を信じるようになったのです。それは母が天に召された日でした。弟が言うには、入院中の母を見舞いに行ったとき、突然、病室内が明るくなって、天使たちが母を迎えに来たのだそうです。その光景を見た彼はイエス様を信じて救われて、今では毎週家族と教会に通っています。そして今後はできるだけ早く会社を退職して、もっと社会のために、底辺の人たちのために働きたいと言っています。
母は生前いつも弟に「イエス様をよく信じなさい」と言い聞かせていました。弟は母が40歳を過ぎてからできた子だったのでかなり溺愛したように思います。その最愛の息子が神様を最後まで信じないでいることに胸を痛めていました。母が弟に最後に言った言葉も「イエス様をよく信じなさい。天国で会いましょう」でした。
天国で会うためには、イエス様を信じなければなりません。イエス様を信じる人だけが天国の門を通過するからです。イエス・キリスト以外は何をもってしても天国の門に入ることはできません。救いの条件はイエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰だけなのです。
使徒パウロはこう語っています。「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない」(ガラテヤ人への手紙6:14)
パウロには誇ろうとすればいくらでも誇れるものがありました。彼はローマ市民権を有し、ギリシャ語と哲学に精通し、律法を遵守するパリサイ人、高名なガマリエルの弟子であり、当時のユダヤ人からうらやまれるような存在でした。しかし、このようなものは「キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」の前では「ちりあくた」(別の訳では「ふん土」)のように思っていると、イエスに出会った後のパウロは言っています。(ピリピ人への手紙3:8)
ともすれば私たちは経歴や権力を誇りとし、「肉において外見をよくしたい」(ガラテヤ人への手紙6:12)と考えがちです。しかし、いくら誇れることが多くあるとしても、イエス・キリストに出会うこと以上のものはありません。しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎないわたしたちの命を、イエス・キリストだけが天国の門へと導くからです。
天国に入るために重要なことをパウロはこう語っています。「ただ、新しく造られることこそ、重要なのである」(ガラテヤ人への手紙6:15) 新しく造られるとは、イエス・キリストを信じて新しく造り変えられることです。私の弟はイエス様を信じて新しく造られました。他人を誰も信じなかった彼が、町の人たちを助けるために走り回り、貧しい人たちに声をかけ、今では町の有名人になっているのです。クリスチャンになる前は自分が偉いと思っていたのか私のことを一度もお兄さんと呼ばなかった弟が、こないだ日本に来た時には、うっとうしいくらい「お兄さん」「お兄さん」と呼ぶようになったのです。
どれだけ長く教会に通ったかは重要ではありません。大事なのは新しく造られることです。人を見下していた者が人に仕えるようになる、人を信じなかった者が人を愛するようになる。そのような新しい創造こそイエスを信じる者に与えられた特権であり祝福です。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(コリント人への第2の手紙5:17)
私たちは今なぜここにいるのですか。その理由はただ一つ、イエス・キリストだけが救い主であり、キリストの十字架と福音だけを誇るからです。イエス様を信じて救われて、いつの日か愛する方々と天国で再び会われますようにと心から祈ります。ここにおられる全てのみなさんと、みなさんの家族の人生に、神様の祝福が注がれますように。
以上