使徒パウロは、様々な土地で多くの人々にキリストの福音を伝える中で、彼自身が「飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、迫害され、ののしられ、人間のくずのようにされている。」と語っているように、多くの苦難に遭い、迫害を受けました。けれども、パウロは堂々と闘ってこれらに打ち勝つことができました。なぜそのようなことができたのでしょうか。その答えは、パウロが図太い神経の持ち主だったからではありません。ただひとつ信仰の力であります。
パウロは、私たち人間はみすぼらしく壊れやすい「土の器」であると言っています。しかし、その中にキリストという宝を持っていて、その測り知れない力によって、どんな苦難をも乗り越えると言うのです。「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」(コリント人への第2の手紙4:7-9)
パウロは続けてこう書いています。「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。」(同4:10-11)
ここに書かれている「死」という言葉は、原文のギリシャ語では、死んでいく過程を強調する単語が用いられています。つまり私たちは日々死につつある人生を十字架を負って生きるべきことを意味します。私たちは苦難を受け十字架を負われたイエスに日々に従って生きます。そしてイエスが復活されたように私たちも永遠のいのちに向かって進んでいきます。
あなたは何をもって自分がキリスト者であることを現すことができるでしょう。祈り、讃美、聖書、奉仕など多くのキリスト者としての証し(あかし)があります。しかし、本当に重要な証しは、あきらめたほうが楽だと思えたり、すべてを放棄する方がよいと思われる中でも、自分に与えられた十字架を、復活の主を見上げながら背負っていくこと。これこそがキリスト者の証しなのです。
希望を失い、飢えと貧しさに苦しむ人々に仕える人たち。今も危険な土地で希望の福音を伝えている宣教師たち。一人の魂が救われるために涙を流して祈る人たち。また何十年間も雨が降る日も風が吹く日も暑い日も寒い日も変わることなく教会と礼拝のために足を運び奉仕する聖徒たち。このような歩みこそがキリスト者の証しです。
失敗したとき、再び立ち上がらせてくださる主を見上げてむしろ感謝すること。わが子の進学や就職の門が閉ざされたときでも神様がもっと大きな道を開いてくださることを信じて先に感謝すること。主が天に召してくださるとき恐れたり恨んだりせず感謝すること。私たちはこのような信仰を実践する聖徒たちにキリストのいのちを見ます。
初めて出会う人に名刺を渡すことで、自分がどんな人であるかをあらわしますが、四方から苦しめるものがあり、途方に暮れることがあり、イエスを信じることを嘲笑う人に会うこともあっても、変わることなく讃美し礼拝ささげるとき、それがまさに私たちが神の人であることをあらわす名刺となるでしょう。人間的な名刺を捨てて、イエスのいのちという霊的な名刺をもって堂々と生きていかれますようにと心から願います。
以上