「先生が讃美歌を歌うと演歌のようですね。」と言われたことがあります。たしかに私は音を長く伸ばすくせがあるので、こぶしがきいて演歌のように聴こえたのかもしれません。しかし、どのように歌っても神様はその人の心を知っておられます。「詩篇」は、もともと音楽に合わせて歌う目的で作られた聖歌集で、旧約聖書の中で「ヨブ記」の次に置かれていますが、私はこの「ヨブ記」→「詩編」という順序が非常に重要であると考えています。その理由について、今日はお話ししたいと思います。

 私が小さかった頃、母はいつも涙を流して祈っていました。部屋で祈る時も、教会で祈るときも涙を流して祈りました。幼い私は、なぜそんなに泣くことが多いのかと不思議に思いました。高校卒業後、私はある理由で大学に進学することができませんでした。友人たちがみな大学に入り楽しい学生生活をしている姿を見て、ひそかに涙を流しました。そんなある日の夕方、いつものように教会に行き礼拝堂でしばらく祈っていると、誰かが聖歌263番を讃美しているのが聴こえてきました。「祈りまつるわが主よ こたえたまえわが身に いよよ切に愛させたまえ 汝をば 汝をば」 今もこの日に流した涙を忘れることはできません。それは、本当に神様が私を愛しておられることを知った涙であり、霊と魂の深いところから流れ出る涙でした。このように涙の祈りと讃美は、霊と魂の深いところから流れ出るものであります。これは苦難と試練の中で、神様と出会うことで体験することができるものなのです。母の流した涙もそのような涙であったと今はわかります。

 ヨブは、とてつもなく大きな苦しみを受け、その怒りと悲しみと絶望の中で神に出会い、唯一おのれが頼ることができる方は神だけであると悟りました。このことがしるされた「ヨブ記」の次に置かれたのが「詩篇」ですので、「詩篇」は人生の「ヨブ記」を通過した人が神にささげる讃美である、と私は解釈しています。「詩篇」全150篇中、70篇あまりがダビデの作です。ダビデは、イスラエルの2代目の王となった人物ですが、彼もまた多くの苦難を経験しました。ダビデの詩は、人生のどん底における祈りであり、嘆きであり、叫びであり、神への讃美であります。ダビデは人生の「ヨブ記」を通過したので、多くの詩を歌うことができたのです。

 今日の聖書個所は、ダビデが息子アブサロムの反逆をのがれて避難しているときに作った詩です。愛する息子に命を狙われるという状況の中でダビデは神様の救いを見ました。

主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。
わたしに逆らって立つ者が多く、「彼には神の助けがない」と、
わたしについて言う者が多いのです。

しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、
わたしの頭を、もたげてくださるかたです。

わたしが声をあげて主を呼ばわると、
主は聖なる山からわたしに答えられる。
わたしはふして眠り、また目をさます。
主がわたしをささえられるからだ。
わたしを囲んで立ち構える
ちよろずの民をもわたしは恐れない。

主よ、お立ちください。
わが神よ、わたしをお救いください。
あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、
悪しき者の歯を折られるのです。
救は主のものです。
どうかあなたの祝福が
あなたの民の上にありますように。(詩編3:1-8)

「ヨブ記」の中にも、ヨブの絶望と神への賛美がしるされています。「わたしの親類および親しい友はわたしを見捨て、わたしの家に宿る者はわたしを忘れ、わたしのはしためらはわたしを他人のように思い、わたしは彼らの目に他国人となった。」(ヨブ記19:14-15)
しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、わたしは金のように出て来るであろう。」(ヨブ記23:10)

 このように「ヨブ記」と「詩篇」は、苦しみから生み出される神への讃美という点で相通じるものがあります。深い苦しみの中で神様に出会った人は、魂の深いところから神に讃美を捧げるでしょう。生きていれば誰もが「ヨブ記」を通過します。今あなたは人生の「ヨブ記」を通過中かもしれません。もしそうなら、どうか神様に出会われますように。深い苦しみの場所は、神様に祈りをささげる場所、神様の恵みを受ける場所に必ず変わるでしょう。
「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。 
 主よ、どうか、わが声を聞き、
 あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。」(詩編130:1-2

 ドイツの牧師であり20世紀を代表する神学者として知られているディートリッヒ・ボンヘッファーは、ナチスを批判して説教を禁じられ第2次大戦中にヒトラーに対する地下抵抗運動に加わりますが、ユダヤ人の亡命を支援したことで逮捕され、1945年4月に強制収容所で絞首刑に処されました。彼は、収容所から最後に送った手紙に、ひとつの詩を書き残しました。それが讃美歌21の469番「善き力に われかこまれ」です。

1.善き力に われかこまれ、
 守りなぐさめられて、
 世に悩み 共にわかち、
 新しい日を望もう。

2.過ぎた日々の 悩み重く
 なお、のしかかるときも、
 さわぎ立つ 心しずめ、
 みむねに従いゆく


3.たとい主から 差し出される
 杯は苦くても、
 恐れず、感謝をこめて、
 愛する手から受けよう。

4.輝かせよ、主のともし火
 われらの闇の中に。
 望みを主の手にゆだね、
 来たるべき朝を待とう。
 

5.善き力に 守られつつ、
 来たるべき時を待とう。
 夜も朝も いつも神は
 われらと共にいます。

 収容所における深い苦しみが、このような讃美を歌うことを可能にしたのだと思います。多くの人は深いところを経験しないまま、ただの歌として讃美歌を歌います。そして人生の苦しい局面にぶつかったとき神から離れます。これは信仰ではありません。暗い人生の局面の中で、もっと真剣に、もっと切実に神様を見上げられますようにと心から願います。私たちも人生の「ヨブ記」を通過すれば、「詩篇」を歌う詩人になれるでしょう。

以上