世間では一般的に強いものが栄え成功すると考えられています。しかし、イエスはこう言われました。「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。」(マタイによる福音書5:5) 柔和な人とは、素直で、おだやかで、謙遜な人であります。このような人たちが幸せであると聖書は教えています。ライオンやトラ、オオカミのような生き方ではなく、小さな鳥や魚が大きな群れの中で互いに助け合いながら楽しく生きる、そのような生き方をしたいものであります。
柔和な者は、神にも人にも愛される。これが、聖書が教える法則です。そのお手本はイエス・キリストです。イエスはこう言われました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(マタイによる福音書11:28-30)
イエスはカギのついたむちで打たれ十字架につけられ血を流されましたが、一言も恨みも憎しみも口にされませんでした。「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。」(イザヤ書53:7)
神様は、私たちの口の中に、かたい歯と柔らかい舌をくださいました。歯はかたくて丈夫ではありますが虫歯になります。一方、舌は虫に食われることなく長くもちます。歯は抜けることがありますが、舌が抜けた話は聞いたことがありません。柔らかさは長持ちする秘訣です。柔和な人は弱いのでなく、むしろ強いのです。
心を傷つけたり傷つけられたりして、心が痛むことが多いのは、私たちの自我が強いからであります。自我が強いと互いにぶつかり、傷つけあいます。強情な心は捨てて柔和であるべきです。柔和な人は、平和を愛するのです。
アッシジの聖フランシスコの「平和の祈り」をご存じでしょうか。フランシスコ(1181-1226年)は修道士で、ローマ教会では聖人に列せられています。彼は、イタリア中部のアッシジの裕福な家庭に生まれ、ラテン語・フランス語・文学を学んだ後、軍人となりましたが、20代で回心し、財産を売り払って清貧の生活に入りました。有名な「フランシスコの平和の祈り」は、世界中で広く愛唱されており、マザー・テレサ、ヨハネ・パウロ2世、イギリスのサッチャー元首相など著名な宗教家や政治家が演説の中で引用しています。
主よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びを
もたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、
わたしが求めますように。
わたしたちは与えるから受け、
ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、
永遠の命をいただくのですから。
柔和な人こそ大きなことを成し遂げます。誠実で神に愛されているからです。このような人は希望に満ち、他者にも希望を与えます。言葉も生活もすべてが柔和でありたいと願います。おだやかな優しい心を持っている人は、良い土壌のように、天と地の祝福を受けて豊かな実を結ぶようになります。柔和な人こそが神に大きく用いられ、子々孫々祝福を受けます。「しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。」(詩編37:11)
モーセは、自分を非難する人を恨まずその人のために祈るような柔和な人物でした。「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。」(民数記12:3)
アブラハムも柔和でした。アブラハムは我が子イサクを供え物としてささげなさいという神様の命令に従順し、祭壇の上にイサクをしばりつけました。それに素直に従ったイサクもどれほど柔和であったかわかりません。
教会員のK兄弟も柔和な方です。初めて会った時の私の第一印象は「イギリス紳士のような方」であります。今月、94歳になられます。先日、K兄弟の家を訪問しました。奥様が亡くなって以降、しばらく訪ねていなかったので久しぶりにお会いすることができました。心の中には寂しさや悲しみ、心の痛みがあるでしょう。しかし、いつものおだやかな顔で私を迎え入れてくれました。本当にKさんは優しくて穏やかな方ですねと言うと、「先生、ちがいます。もっと反省しなければなりません。私はもっと柔和にならなければなりません」と言われたのです。帰宅後、私は悩みました。私のような気が短い者ではなく、あのような人が牧師になるべきではないのか。。神様の前に苦しみ悩みつつ祈りました。
「あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりするような外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。」(ペテロの第1の手紙3:3-4)
「柔和」は、聖書の原文(ギリシャ語)には「極端にならない」という意味を含む単語が用いられているそうです。柔和な人は、極端に一方だけの肩をもつようなことをしません。自分だけが正しいと考えずに、違いを受け入れます。
また、柔和な心は温かくて潤いがあります。湿度が低いと山火事が起きやすくなるように、私たちの心にも湿り気が必要です。だから私たちは教会に来るのです。春の雨のようなイエス・キリストの血潮の恵みで心が潤うようになるためです。御言葉を聞いて、悔い改めるようになれば、心が温かくなり潤いが回復します。かたくなで批判的で抵抗する心が優しく柔らかくされるのです。
私たちを強情にさせるのは、私たちの内にある罪です。私たち自身が強情なのではなく、罪によって悪しきものが入ってきて私たちの中で働いて心がかたくなになるのです。ですから柔和になるためには、罪を悔い改めた後、聖霊の実を結ばなければなりません。柔和は聖霊によって与えられる実であると聖書が教えているからです。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(コリント人への第1の手紙5:22-23)
柔和な人は自分の罪を認め、自分の足りなさを知っているので、他人の罪や過ちをゆるします。互いに理解し、愛しあい、あたたかい心で手と手を取って共に歩んで行きましょう。柔和になる時、私たちの家庭と人生に、春のような温かさと信仰と希望と愛が生まれ、祝福された日を過ごすことができるでしょう。
以上