すべての人は「飢え渇き」を持って生きています。飢え渇きには、「肉的飢え渇き」と「霊的飢え渇き」があります。「肉的飢え渇き」とはこの世のものを求める渇きであり、「霊的飢え渇き」とは神や永遠を求める渇きです。どちらの渇きが必要でしょうか? 実のところ、私たち人間には両方が必要です。生きるためには食べ物、衣服、住む家が必要です。この牧師にも健康な良い暮らしをして幸せになりたいという飢え渇きがあります。クリスチャンになったから肉的な飢え渇きが必要ないかというと、そんなことはありません。
しかし、肉的飢え渇きが強いと問題が起きます。欲が生まれ、精神が腐敗し、悩みや心配、不安を抱えるようになるからです。そうならないためには、霊的飢え渇きを満たさなければなりません。そうすれば、神が与えて下さる恵みに感謝しながら、祝福された人生を歩むことができるのです。「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。」(詩編42:1-2)
どこに住んでも、どの時代に生きても、人の心には不安がつきものです。見た目には何事もなく平気なような顔をしている人にも、心の中に渦巻く不安があるものです。哲学者のキルケゴールは「人間が不安から完全に解放される道は死以外にない」と言いました。本当にそうでしょうか? いいえ、霊的に飢え渇き、神を慕いあえぐ人には命の水が与えられ、生きている間も心に平安が満ちあふれます。これがまさに霊的飢え渇いている人に神が与えてくださる最高の恵みなのであります。「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネによる福音書4:14)
人生は、自分が選択したとおりになります。アブラハムの甥ロトは、肉的な飢え渇きを満たそうとソドムの地を選び、神の裁きを受けました。神への信仰を第一としたアブラハムは、神に愛され大きな恵みを受けました。霊的飢え渇きを持つ者は神に祈ります。神はそのような人と共におられ、その人の人生に責任をもってくださるので、心にはいつも平安があります。そのような人を、悪しきものは倒すことは決してできません。
「終わり良ければすべて良し」と言いますが、人生、最後が一番重要です。私たちは死を恐れません。なぜなら霊的に飢え渇く者たちにとって、死とはこの世と天をつなぐハシゴだからです。聖書には世の終わりについて記されている箇所があります。「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。」(第一テサロニケ4:16)私たちの主が再び来られるとき、主を慕いあえぐ人はどれだけ嬉しいでしょうか。
よし天地(あめつち)崩れさり ラッパの音と共に
御子イエス現れるるとも などて恐るべしや(聖歌477番より)
この世から押し寄せて来る波に、時に悩み、恐れを抱きます。しかし、主は霊的飢え渇きを持つすべての人を慰め、助け、勝利に導いてくださいます。「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」(詩編42:11)
肉的飢え渇きの満たしだけを求める人たちは、神などいない、祈りは何の役にも立たない、教会に行くのは時間の無駄だと言います。「人々がひねもすわたしにむかって「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間はわたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。」(詩編42:3)
しかし、人生は渇きへの対応によって大きく左右されることを忘れてはなりません。悪いもので渇きを解決する人には、悪い人生が待っています。優しく思いやりがあるもの、聖なるもので渇きを解決する人には、優しく思いやりがある聖なる道が開かれます。楽しく生きるために好きなだけ酒を飲み、その結果、人工透析をしなければならなくなった人の話を聞いたことがあります。その人は、人生を浪費してしまったと後悔しておられました。主にあって良い選択するべきです。教会に行きたい、礼拝に参加したいと思う心、霊的に渇いている魂は幸せな魂です。
みなさん、信仰生活は狭い道を行くことです。私にも苦しい時期がありました。しかし、振り返ってみれば、良かったことよりも、むしろ苦しかったことを今では感謝しています。この教会に赴任したころ、一日のうち一食は食パンの耳を食べる生活をしていました。うちにはそんなにお金がないの?と子どもに言われた一言が今も忘れられません。ある時、息子が通学定期を落とし、親にお金がないと思って半年間、自転車で高校に通っていたことを後になって知りました。今、子どもたちはその苦労を乗り越え、日々真面目に働いて幸せな家庭を築いています。この世的には貧しく苦しい時期でありましたが、その時ともにおられた神様にお会いする日まで、霊的飢え渇きをもって生きたいと願い、そのように導いてくださいと祈るものであります。
みなさんが、主を慕いあえぐ人生を、主と共に歩んでいかれますように心からお祈りします。
以上