「十字架に向かって進み行きなさい」
ルカによる福音書 9:51-56
多くの人々は、目標達成や成功、また獲得することや満たされることに価値を認め、それを大切に生きておられます。聖書には、イエスの弟子たちも、そのような価値観で心がいっぱいになっていた様子が描かれています。
弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。(ルカによる福音書9:46)
彼らがこのような議論を始めた理由は、イエスが王になられたとき(彼らは、イエスがローマの支配を倒し、地上の王になると信じ込んでいました)、自分が一番高い地位につくことを期待していたからです。また、次のような記述もあります。
するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。 イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。(ルカによる福音書9:4-50)
ヨハネは、イエスの名によって悪霊を追い出すことができることを、自分たちの専売特許のように考え、他の人がそれを行うのを阻止しました。イエスは、そのような特権意識を叱られたのでした。
このような弟子たちの姿は、イエスとはまったく正反対の姿でした。イエスと弟子たち一行は、エルサレムに向かって進んで行きましたが、イエスの心と弟子たちの心は全く異なっていたのです。
さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ(ルカによる福音書9:51)
ここにイエスの揺るぎない意志が示されています。イエスがエルサレムへ行かれる理由は、十字架の上で死なれるためでした。イエスは、力を得て高い地位につくためではなく、すべての人類を罪から救うために、十字架の死へと断固たる決意で進まれたのです。
今年の当教会の標語は「道に進み行きなさい」です。この標語については、私の心の中に一つの心配があります。目標達成し、多くのものを手に入れ、より高い地位を手に入れて、偉くなろうとする心でいっぱいになってしまわないかという心配です。もし、そのような動機だけで人生を歩み、子を導くなら、目標に到達して成功したとしても、イエスの心とは大きくかけ離れ、成功が滅びにつながる危険があるのです。だからこそ、皆さん、イエス・キリストの心で進み行きましょう。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(ピリピ人への手紙2:6-8)
目標を達成しても、イエスから遠ざかるなら、それは悲劇です。イエスは十字架に向かって進まれました。しかし、残念ながら私たちは、広い道を好む傾向にあるのです。
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。(マタイ7章13〜14節)。
イエスと弟子たちの心の違いは、エルサレムに向かう行程で出くわした状況への対処方法にもあらわれました。
自分に先立って使者たちをおつかわしになった。そして彼らがサマリヤ人の村へはいって行き、イエスのために準備をしようとしたところ、村人は、エルサレムへむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。 弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。(ルカによる福音書9:52-54)
サマリヤ人とユダヤ人の関係が悪かった上に、イエスがエルサレムへ向かっていると知ったため、サマリヤの村人たちはイエスを受け入れませんでした。すると弟子たちは、このような常識外れの怒りを示したのです。自分たちが拒否されたことへの怒りは、理解はできます。しかし、たとえそうであるとしても、イエスの弟子たる者が、このような恐ろしい言葉を口にするとは、本当に人間とは罪深きものです。これに対してイエスはどう反応されたでしょうか。主は、弟子たちとはまったく異なる対応をされました。
イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった。 そして一同はほかの村へ行った。(ルカによる福音書9:55-56)
イエスにとって、どこで一夜を過ごすかという問題はまったく重要ではありませんでした。そんな小さなことと比較できないほど偉大なことが、主の心の中には満ちていました。それは、エルサレムですべての人類のために十字架を背負い、メシヤとしての使命を全うすることでした。主がこの世に来られた偉大な目的に比べれば、村人から拒否されることなどなんでもなかったのであります。
私たちは小さなことにすごくこだわるときがあります。日常生活の中で、あるいは主の働きをする中で、ささいなことで怒ったり、悲しんだりすることが実に多いのではないでしょうか。親子間でも、隣人間でも、教会の兄弟姉妹の間でも、自尊心とメンツのために、自分の思いを過度に主張し、意地を張り、周囲を疲れさせたり苦しめたりします。なぜ私たちは、イエスのようにできないのでしょうか。なぜ心が狭いのでしょうか。
それは、私たちは「得る」ために進み、イエスは「死ぬ」ために進む。この違いがあるからです。私たちも今、イエスのように十字架に向かって進むべきです。
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。(ガラテヤ人への手紙5:24)
ある牧師が、神様に「主よ、私の問題を解決してください。一部の信者が、私が何かしようとすると、いちいち反対してきます。あの人たちを何とかしてください。」と祈りました。すると、イエス様から答えが与えられました。それは「あなたが死になさい。」というものでした。「私を見なさい。私も死にました。死ぬことは勝つことです。あなたが死ねば教会は生きます」と。
あなたが死ねば、あなたの家庭は生き返ります。あなたが死ねば、あなたの妻は生き生きします。死ねば生きる法則。これを学んでください。学んだ人は、自分を主張しません。自分を殺します。死んだ者は言葉なく静かです。自尊心と体面がくずれても、主の働きが実を結べばそれを喜びます。
パウロがそうでした。彼が投獄された時、この逆境を見て、周囲のキリスト者たちは二つの反応を示しました。パウロに好意的な人々は、さらに大胆に福音を語るようになりました。一方、敵対的な人々は、パウロとの勢力争いや自己顕示欲のために、あえて熱心に伝道を行いました。普通であれば、自分の苦境を利用して名前を売ろうとする人々に対し、怒りを覚えても不思議ではありません。しかし、パウロの心情は全く異なりました。
兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。(ピリピ人への手紙 1章 14〜18節)
パウロは、福音宣教という偉大な目標の前に、自尊心などとうに捨てていました。主の栄光のためなら、自分は一番低いところにいることを喜んでいたのです。彼はまさにキリストに似た者となりました。私たちもキリストに似た者となる心で進んで行きましょう。得ようとすると失い、主のために失うことを恐れない人は得るようになる。自分を空しくして、自らを低くする人は満たされる。滅びに至る道は広く、天国に通じる道は狭い。死ねば生きる。十字架への道を進んで行かれますように。
以上