「飼葉おけに寝ているイエス様」
ルカによる福音書2:8-12
イエス・キリストがユダヤのベツレヘムでお生まれになった夜、御使いがあらわれて羊飼いたちに天からのメッセージを伝えました。
さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。(ルカによる福音書2:10-12)
しるしとは、それが真実だと分かるようにするために神が与えてくださる証拠です。羊飼いたちがベツレヘムに行ったときに、他の幼な子をイエスと間違わないように、しるしが与えられました。
このしるしには、もう一つ重要な意味が含まれていました。
当時のユダヤ人たちは、数百年間、旧約聖書に預言されたメシヤ(救い主)の到来を待っていましたが、彼らがメシヤに期待していたのは、ダビデのように自分たちを抑圧している勢力を倒して再び強い国をたてることでした。華麗な宮殿に住み、兵隊を動かす力を持つ王のようなメシヤ。しかし、小さなベツレヘムの町に彼らが満足するような宮殿はありません。まして飼い葉おけ(牧草など家畜用のエサを入れるおけ)の中に寝ている幼な子がメシヤであるとは、天からのお告げでもなければ誰も信じなかったでしょう。だから御使いは飼い葉おけに寝ていることがメシヤのしるしであると告げたのです。
神は、イエスが誕生の瞬間からみずぼらしい場所におられることで、イエスがどのような方であるか、すなわち高くなるためでなく低くなるために来られた方であることが分かるようにしてくださった。動物の臭いのする場所で、動物のエサを入れるおけに寝ていることで、貧しさと病の苦しみの中で生きる人々に近づいてこられる方であることを、私たちに分かるように見せてくださったのです。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(ピリピ人への手紙2:6-8)
いまだかつて、そのようなしるしは存在しませんでした。みんな自分がエラくなろうとするこの世の中で、主は自らを低くされ、低い場所に捨てられている人生たちをなぐさめてくださいました。主が低くなられたゆえに私たちは神の子どもとされ、主が十字架で死なれたゆえに私たちは永遠の命を得て天国の民とならせていただきました。
しかし、当時のユダヤ人たち、特にパリサイ人たちは、このしるしを認めませんでした。彼らは自分たちが気に入らないしるしは拒否し、期待を満たすしるしを要求したのです。結局、彼らは自分たちの期待を裏切ったイエスを受け入れませんでした。病をいやし、みことばを教え、奇跡のわざをなさっても、彼らはイエスがメシヤであるとは認めなかったのです。
今日も多くの人々が、神がいるならその証拠を見せてください、神が愛ならどうして人生に苦しみがあるのでしょうか、私の気に入るようにかっこよく周りのみんながびっくりするように目に見える形で恵みを与えてください、あなたが神であることを見える形で示してくださいと「しるし」を求めています。
しかし、そう言っている人たちは、まるで母親に対して「私のために何か良いことをしてくれたことが一度でもありますか」とたてつく、まだ大人になりきれていない子供と同じです。彼らは、生まれた時からお母さんが乳をのませ、おむつを替えてくださったことを覚えていません。熱が出ているときに抱きかかえて病院に連れて行ったことも覚えていません。自分のために流した母の涙を知りません。愛がしみこんだ行いの一つ一つをまったく自覚していません。
野菊咲く祈るばかりの母になり
ある教会員の方が詠まれたこの俳句を読んで、母のことを思い出しました。母はいつも礼拝堂で祈っていました。家にいるときよりも教会の礼拝堂で座っていることが多かった母は、自分より姉さんたちを大事にしたのではないか、自分より弟によくしたのではないか、私はお母さんに何もしてもらってない、と思ったことがあることをこの俳句で思い出し、悔い改めて、神様からゆるしをいただく幸いな時間を持つことができました。
殺人の罪をおかしたある死刑囚が、刑場の広場に引きずり出され、人々は彼を罵倒し「はやく死刑台に!」と叫びました。その時、ひとりの老婆が彼に近づき、その頬をさすりながら抱きしめました。極悪非道な罪人にそのようなことをすることができる人は、母親以外に誰がいるでしょうか。抱きしめる動作ひとつで、彼女はこの死刑囚のお母さんであることを証明し、罵倒する声をともに身に受けることで彼女は息子への愛を証明しました。私たちもこの死刑囚と同じです。私たちは死んで当然の罪びとです。イエスは刑場に立たされている私たちに、罵られ蔑まれながら近づいて来られ、抱きしめてくださることで、私たちへの愛を証明されました。
それだけでなく、イエスご自身が私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださり、すべての罪の鎖から解放してくださり、永遠の滅びから救い出してくださいました。栄光ある天の御座をすててこの世に来られ、飼い葉おけに生まれたことこそが、イエスの愛が真実であることを証明しています。
今私たちがすべきことは明確です。もっと多くのしるしを求める態度を捨てて、すでに与えられたしるしに感謝しながら、主の愛に感激して生きることです。そして、主が低くなられたように私たちも喜んで低くなることです。そのような心で今年のクリスマスを迎えることができるように心から願います。
以上