「恐れないようにする恐れ」2025.11.16
イザヤ書1:1-9
人は誰でも自分が生きる時間と空間を選ぶことはできません。今日の聖書箇所は、預言者イザヤが生きた時間と空間を見せてくれるところから始まります。それは、今から約2700年前のユダ王国であり、神の前に罪悪がはびこる悪しき時代でした。
天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、
主が次のように語られたから、
「わたしは子を養い育てた、
しかし彼らはわたしにそむいた。
牛はその飼主を知り、
ろばはその主人のまぐさおけを知る。
しかしイスラエルは知らず、
わが民は悟らない」。
ああ、罪深い国びと、不義を負う民、
悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ。
彼らは主を捨て、
イスラエルの聖者をあなどり、
これをうとんじ遠ざかった。(イザヤ書1:2-4)
当時の人々は、自分たちを生み育てた父なる神を捨てて出て行ったこどもたちのようでありました。そして、その結果はたいへん悲惨なものでした。
あなたがたは、どうして重ね重ねそむいて、
なおも打たれようとするのか。
その頭はことごとく病み、
その心は全く弱りはてている。
足のうらから頭まで、
完全なところがなく、
傷と打ち傷と生傷ばかりだ。
これを絞り出すものなく、包むものなく、
油をもってやわらげるものもない。
あなたがたの国は荒れすたれ、
町々は火で焼かれ、田畑のものはあなたがたの前で外国人に食われ、
滅ぼされたソドムのように荒れすたれた。
シオンの娘はぶどう畑の仮小屋のように、
きゅうり畑の番小屋のように、
包囲された町のように、ただひとり残った。(イザヤ書:5-8)
1623年の冬、詩人であり牧会者であるジョン・ダンは重篤な病にかかり、耐え難いほどの苦しみにあいました。彼は神にしつこく質問しました。「約束されたあなたの臨在はどこにありますか?」「この狭い隔離部屋にまで、あなたは来ておられるのでしょうか?」「あなたの慰めはどこにありますか?」 彼は、どうして私ですか?、なぜ私がこの苦しみにあわなければならないのでしょう?と、答えのない祈りをもがきながらし続けました。そんなある日、彼の耳に教会の鐘の音が聞こえてきました。当時、人が死ぬと教会の鐘を鳴らして知らせる習慣がありました。彼はその鐘の音が、自分の死を世に知らせているように思えて恐怖しました。
そのような真っ暗なトンネルのような時間を過ごすジョン・ダン。彼はしだいに神に考えを集中させるようになりました。自分の内側に向かっていた考えが、イエスに向かうようになったのです。そして、天の御座におられるべき方が、なぜこの世に来られたのか、なぜ十字架で死なれたのかを考えました。いくら考えても、それは恵み以外の何物でもありませんでした。そしてイエスが復活したときの女性たちの様子が浮かんできました。
この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。 そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。(マタイによる福音書28:5-8)
彼女らは喜びの中に恐れの念を抱いたのです。つまり、イエスの復活を大喜びしつつ、死に打ち勝つ偉大なる神を恐れたのでした。ジョン・ダンは、この世の中には恐ろしいことが多いが、最も恐れるべき方は死にさえ打ち勝つ神であることを悟りました。彼は病床で「Devotions upon Emergent Occasions(危篤時の祈り)」を書きました。苦しみが結実した本でありました。その本の中に有名な一節があります。「誰がために鐘は鳴るかを問うな。鐘は汝のために鳴っているのだ」 ヘミングウェイの有名な小説「誰がために鐘は鳴る」は、ここから題名がつけられました。彼は、神ひとりだけを恐れれば、世の他のすべてのものは恐くないことを知りました。そして、ローマ人への手紙の次の一節を黙想しました。
だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(ローマ人編手紙8:35-38)
そして彼は祈りました。「主よ、いま私に、恐れないようにする恐れを与えてください」
世のすべてのものを恐れないためには、ただひとつの恐れさえあればよいと悟ったのです。それは神に対する恐れでした。この恐れは、神を敬い信頼する心、言い換えれば、神だけを敬いこの方をすべての世の主人であることを信じれば世の他のものは恐れる必要はないというものでした。
神ひとりを信頼し敬うようになれば死も苦痛も恐ろしくなくなりました。ついに彼の心の中に希望が生まれました。教会の鐘の音が、命の終わりを意味する終止符から、鐘の音を聞くことができるのは生きている証拠だから今から私はどう生きるべきか?という疑問符に変わりました。鐘の音が聞こえる限り、生きるべき理由があり、人生には意味があり、その意味を追求していく限り自分は価値のある必要とされる存在であると悟ったのです。以前は苦痛を恐れたが、今は苦痛を通して人生の深い意味を探し求め、神に用いられることができることがわかりました。そして祈りも変わりました。苦痛も神が用いることを知ったとき、「苦痛を消え去るようにしてください」という祈りから「主よ、あなたを信頼します」という祈りに変わったのです。
イエス・キリストの十字架は、苦痛の象徴です。しかし、この苦痛の十字架が私たちへの救いをもたらしました。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。(イザヤ書53:5)
このみことばの恵みが、今日この時間、みなさんに注がれること祈ります。
イザヤが生きた時代と場所は、憂鬱な灰色の背景が描かれた絵画のようでした。しかし、その時代を照らす希望がまだ残っていました。その光を照らす方は神でした。愛なる神は滅ぶべき時代の中に生存者を残され、手を差し伸べてくださいました。バビロンによって崩された国を再建するよう、愛する民に恵みを施してくださったのです。
もし万軍の主が、
われわれに少しの生存者を残されなかったなら、
われわれはソドムのようになり、
またゴモラと同じようになったであろう。(イザヤ書1:9)
愛する皆さん、次の日曜は収穫感謝礼拝です。感激の涙が流れるような、胸が熱くなるような激しい感動が、皆さんの人生にはあるでしょうか。感謝すべきことは多くありますが、最高の感謝は神様ご自身です。神様が共におられます。憐みの目でいつも私たちのそばで見ておられます。いかなる状況の中でも、信頼すべきお方を恐れれば、世の他の何物をも恐れないようにしてくださる神様。愛するみなさん、私たちには神様がおられます。神様があなたの味方です。これ以上に幸せなことがどこにありますか。人から認められなくても、自分自身さえ自分を認めなくても、神様は今日語られます「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)。このような素晴らしい恵みがどこにあるでしょうか。
シャデラク、メシャク、アベデネゴが燃える炉の前で感謝することができた理由、ダニエルが獅子の穴の前で抵抗しなかった理由、パウロが獄中で神を賛美できた理由、臨終を前にした信仰の先輩たちが喜びの微笑みを浮かべて愛する家族に最後の別れを告げることができた理由、やもめが極度の貧しさにもかかわらずレプタ2枚を感謝して捧げることができた理由、失敗と挫折と心の苦しみがあるにもかかわらず変わることなく礼拝堂に足を運び敬虔に祈ることができる理由、これはまさに神様であります。愛なる神様は私たちの一番の味方であり、神様は一番強いお方です。真に恐れるべき方は神様です。神様を恐れれば、何物も恐くありません。
以上