「イエス様を信じるということは、イエス様を信じることです」
ヨハネによる福音書1:19-28
バプテスマのヨハネは、イエスのご生誕の半年前に生まれました。彼はらくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた(マタイによる福音書3:4)と、少し風変わりな人物のように感じられるかも知れませんが、ローマの支配下で長いあいだ圧政に苦しんでいた当時の人々にとっては、現代の私たちが考えるよりも、はるかに重要な存在でした。
バプテスマのヨハネは、ユダヤの荒野で人々に向かって「悔い改めよ、天国は近づいた」 (マタイによる福音書3:2)と教えました。その言葉は鋭い矢のように民衆の心に刺さり、多くの人々がヨハネのもとに集まって来て罪を告白しバプテスマ(洗礼)を受けました。そして人々は、ヨハネこそが待ち望んでいたメシア(救い主)ではないかと考えるようになりました。そこで、ユダヤ人指導者たちはヨハネに対して「あなたはどなたですか」と、メシアであるかどうか質問します。ヨハネは「わたしはキリストではない」と明確に否定しました。(ヨハネによる福音書1:19-20)
それでは、バプテスマのヨハネとはどのような存在なのか? 彼の使命は人々をイエスに正確に導くことでした。彼は最新の高性能カーナビのように、間違ったルートを修正して人々を正しい道へと案内しました。
そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。 彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。(ヨハネによる福音書1:22-23)
ヨハネの偉大さは、来るべきメシアは自分ではなく、イエスこそがメシアであると正確に人々に知らせたことです。もし、ヨハネが正確に伝えなかったとしたら、人々はヨハネをメシアだと信じ、その結果、人々の魂は救われることなく滅びに移されたでしょう。
つかわされた人たちは、パリサイ人であった。彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。(ヨハネによる福音書1:24-27)
この先も、偽キリストが来て、キリストのふりをすることがあるでしょう。惑わされて道を間違い、崖の下に落ちないよう注意しなければなりません。
そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。(マタイによる福音書24:4-5)
今日のメッセージの題は「イエス様を信じるということは、イエス様を信じることです」としました。これは消極的な表現に言い換えれば「イエスを信じることは、イエスではない他のものを信じないことです」となります。私たちは、イエスとイエスではない他のものを区別し、正確にイエス様を信じるべきです。
残念なことに、イエスではない他のものを信じているのに自分はイエス様を信じていると思い込んでいる人が少なくありません。そのような人たちは、イエス様の周辺を徘徊しているに過ぎません。イエス様の周辺にあるものに心を奪われることなく、聖書が証明しているイエスを信じるべきです。
聖書が証明しているイエスを信じるとは、イエスが神の御子であること、イエスが十字架で流された血潮によって私の罪はゆるされ、イエスが死人の中から復活することで私の救い主となられたことを信じ、イエスに従順する。そして、イエスを通して入ることができる永遠なる天の御国をしたい求めながら、この世においては地の塩・世の光として生き、福音の証人となる。これが、イエスを信じることの本質です。
あなたが「イエス様を信じるとは、何を信じることですか?」と誰かに尋ねられたなら、すぐさま「イエス様を信じることは、聖書が証明しているイエス様を信じることです」と答えることができなければなりません。イエスを信じることと、イエスの周辺を徘徊することを区別するために、時には激しい霊的戦いをしなければなりません。しかし、イエスを正しく正確に信じる者には、神が備えておられる豊かな恵みと祝福が約束されています。聖書が証明している真のイエス様を信じてくださることを心から願います。
以上