「一番、古い計画」
マタイによる福音書26:1-13
「福音」と「伝道」は、キリスト教会を維持してきた二つの大きな柱です。本日の聖書箇所には、この二つが登場します。
さて、イエスがベタニヤで、重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。 よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。(マタイによる福音書26:6-13)
このようにイエスはこの福音が宣べ伝えられる所ではと、福音と伝道について言及されました。
「福音」とは「グッド・ニュース」すなわち、よき知らせであります。滅びるしかない罪びとにとって、救いの福音以上に良い知らせはありません。神は罪びとである私たちを永遠の滅びから救うために、ひとりの御子イエスをこの世に送ってくださいました。イエスは30歳ごろからメシア(救い主)としての働きを始められました。人々にみことばを教え、神の愛を伝え、悪霊を追い出し、病人をいやされました。そして、マタイによる福音書26章と27章には、イエスが捕らえられ連行され裁判を受けて十字架で死なれた出来事が記され、28章には復活が書かれています。つまり、マタイ26章から28章は、イエスのメシアとしての働きの絶頂であり、福音の核心である十字架と復活が記されています。イエスは、私たちを罪から救うために十字架という最も恐ろしい刑罰を受けてくださり、流された血潮によってすべての罪を洗い清めてくださり、打たれた傷によって私たちの病を担ってくださいました。罪ののろいために永遠の滅びに向かうしかない全人類を救うために、十字架の上でその原因である罪を取り除き、罪の問題を解決してくださいました。イエスがもし死にとどまったなら救いはなかったでしょう。しかし、イエスは死の力を打ち砕き、復活され、それによって永遠の命の扉を開きました。十字架の死で終わるのでなく復活を通して、新たなチャンス、人生の新しい希望を与えてくださったのです。
少し変わったたとえですが、福音は製品に、伝道は販売にたとえることができます。今日の聖書箇所はイエスが十字架につけられる前の時点であり、福音という製品はまだ作られていません。にもかかわらず、イエスはこの福音が宣べ伝えられる所ではと言われた。まるで製品が作られる前に、販売店をオープンすると言っておられるかのようです。なぜイエスはそのように語られたのか。これは、まだ私は十字架につけられていないが、神の救いの福音は必ず完成する、そして世界じゅうに伝えられる、私が必ずそのようにするという計画の宣言なのです。そういう意味では、この計画は一番古い福音伝道の計画であると言えます。神はこの計画を徹底的に進行させてこられました。
教会では伝統的に創世記3:15に神の計画を発見することができると考えられています。「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(創世記3:15)。ここで女のすえは乙女から誕生したイエスを、へびのかしらを砕きはイエスがサタンに対して勝利することを、意味します。このみことばが語られた以後、旧約聖書には多くのメシア預言が語られました。
イザヤは、メシアの誕生と受難を預言しました。
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ書9:6)
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。6われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。(イザヤ書53:5-6)
詩篇は、メシアの復活について預言しました。
しかし神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府の力からあがなわれる。(詩篇49:15)
イエスは、弟子たちに自分の死と復活について予告されました。
この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。(マタイによる福音書16:21)
このように神の救いの計画は、旧約時代から一貫しています。福音を成し遂げる過程にもサタンの妨害はありましたが、主はすべて打ち砕き勝利され、救いの福音を完成されました。サタンはイエスが十字架を背負わないうように妨害しました。十字架と復活が私たちを救うことを心配したサタンは、イエスが十字架にかけられた状態においても、嘲笑う者の口を通して「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」(マタイによる福音書27:40)と挑発しました。イエスが十字架から降りたなら福音は未完に終わり、人類の救いの道が消えるからです。
今日の聖書箇所には「そのとき、祭司長たちや民の長老たちが、カヤパという大祭司の中庭に集まり、 策略をもってイエスを捕えて殺そうと相談した」(マタイによる福音書26:3-4)と、敵対者による陰謀が書かれています。 彼らはイエスを殺すことが自分たちの勝利と信じていたが、彼らの悪しき行動さえも神は私たちを救う道具として用いられたのです。
今日の聖書箇所に登場する女性はベタニアのマリアで、彼女がイエスに香油を注いだ時に彼女を非難した弟子はイスカリオテのユダです。マリアはイエスを愛する心でイエスに香油を注ぎましたが、会計をまかされていたユダは「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」 とマリアを無駄遣いしたかのように非難しました。この箇所を読むと母を思い出します。母は熱心なクリスチャンでした。しかし、子供だった私は母のその熱心さが好きではありませんでした。いつも我が家には家族以外の人が2、3人は住んでいたのです。母は貧しい子供たちを引き取り、食べさせ、中学・高校・大学まで行かせました。大金持ちでもないのにそんなことをする母を私は理解することができなかった。私には母の行いが無駄使いに見えた。もっと我が子によくしてくれたらいいのにと思った。しかし、母の行為は無駄ではありませんでした。そうやって母が育てた子供の中から、二人が牧師になり、社会で役に立つ働きをする人も出ました。我が家は裕福ではなかったけれど、神様が何十倍の祝福を与えてくださったのです。マリアの献身的な行いは、美しい物語として今も語り継がれています。
マリアから葬りの用意として香油を注がれたイエスは、ご自身が予告されたとおり十字架にかかり、死んで墓に葬られ、三日目に復活して救いの福音を完成されました。しかし神の計画はここで終わりません。イエスは弟子たちに福音伝道を命令され、いつも彼らとともにおられることを約束されました。
イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイによる福音書28:18-20)
イエスが弟子たちにこのような約束をされた理由は、福音を伝道するとき必ずサタンが妨害するのを知っておられたからです。弟子たちは力を受けて地の果てまで福音を伝え、イエスはいないと否定する人々にも福音が伝えられ、今日、遠く離れた日本に住む私たちにも伝えられました。
福音が伝えられたのは人間の力ではなく、神の愛であり、神の熱心です。福音を聞いた私たちがなすべきことは、福音に参加することです。福音に参加するとは、イエスを救い主として心に迎え入れ、イエスが私の罪のために十字架にかかってくださり、流された血潮の恵みによって罪は洗い清められ、父なる神と和解してはばかることなく大胆に進み出て「父よ」と祈ることのできる神の子となった、そしてイエスが復活されたように私も復活して永遠の御国に行くことができるようになった、そのことを信じることであり、そしてこの素晴らしい福音を人々に伝えることであります。子供たちにも伝道しましょう。私の子供は勉強もできる、誠実である、世の中的にも成功した、だから大丈夫なのではありません。今日の聖書箇所のマリアが美しい物語の主人公になったように、福音が伝えられるところに、皆さんの涙と祈りと献身が美しい物語として伝えられることを心から願います。福音の力と、神様の愛を信じて、私たちみんなが福音に参加する者になりましょう。
以上