「帰還」
エレミヤ書31:7-14

聖書は帰還の書物といえます。帰還の話で満ちているからです。例えば、出エジプト記は奴隷生活をしていたイスラエルの民が、エジプトを離れ荒野を通過して彼らの故郷である約束の地カナンに帰還する歴史です。

バビロンによって滅亡したユダ王国の民が、エレミヤの預言通りに捕囚の地からエルサレムに帰ったことも神がなされた帰還の歴史です。神は大きな罪を犯し続けた民たちに、国の滅亡を預言されましたが、同時に回復の預言もエレミヤを通して次のように告げられました。

まことに、主はこう言われる。
「ヤコブのために喜び歌え。
国々のかしらに向かって叫べ。
告げ知らせよ、賛美して言え。
『主よ、あなたの民を救ってください。

イスラエルの残りの者を。』
見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、

地の果てから彼らを集める。
その中には、目の見えない者も足の萎えた者も、
身ごもった女も臨月を迎えた女も、ともにいる。
彼らは大集団をなして、ここに帰る。
(エレミヤ書31:7-8)

この預言はBC537年に成就します。その年、ペルシャがバビロンを征服し、ペルシャのクロス王が解放令を発布したのです。

ペルシャ王クロスの元年に、主はさきにエレミヤの口によって伝えられた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの心を感動されたので、王は全国に布告を発し、また詔書をもって告げて言った、「ペルシャ王クロスはこのように言う、天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに下さって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。 あなたがたのうち、その民である者は皆その神の助けを得て、ユダにあるエルサレムに上って行き、イスラエルの神、主の宮を復興せよ。彼はエルサレムにいます神である。(エズラ記1:1-3)

しかし、故郷エルサレムに帰還したのは彼ら全員ではありませんでした。自らバビロンの地に残った者も多くいたのです。なぜなら、数十年間のうちにバビロンでの生活に慣れてしまい、それなりに落ち着いてしまった者も多かったからです。中には財産を築いた人や、高い地位につくことのできた人もいました。しかし、その一方で故郷エルサレムは神殿も城壁もくずされ、町は廃墟となり、帰れば苦労が待ち受けていることは明らかでした。

帰るべきか、残るべきか。これは信仰の分岐点でありましたが、神のみこころは明確で、それは帰還することでした。バビロンは偶像の地、ユダ王国は神が与えた約束の地です。バビロンを離れユダに進むこと。これすなわち、サタンから離れて神へ進むこと、罪と不信仰を離れて聖なる場所へ進むこと、滅びを離れて永遠の命へと進むことなのです。

私たちの人生もこれと同じく、日々選択の分岐点に立っています。ある人は残る道を選び、ある人は帰還への道を選びます。ある人は祈り、ある人は祈りをやめます。聖書が教える救いとは、バビロンを離れてユダに帰還すること、すなわち神に立ち返ることです。キリスト教信仰とは、帰還への旅路である。と、言うことができるでしょう。

帰還するために、二つのことをする必要があります。

第一は、離れる決心。今とどまっている場所での安寧を振り払わなければなりません。離れることは捨てることでもあります。パウロはイエス・キリストに出会ってから、それまで自分が誇りと思っていたものを糞土のようであると言って、すべて捨てました。

第二は、神の近くに行くこと。一足一足動かして、神に向かって進まなければなりません。これを劇的に見せてくれるのが、イエスが語った放蕩息子のたとえ話です。

 ある人に、ふたりのむすこがあった。 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。 

 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。 

 ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、ひとりの僕(しもべ)を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。 僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。 兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、 兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』。(ルカによる福音書15:11-32)

放蕩息子は落ちるところまで落ちたのち、恥ずかしい思いもプライドも一切捨てて父の家に向かって一歩一歩進んで行きました。父は息子に走り寄って抱きしめて迎え入れました。まさに神はご自分に帰ってくる者を待っておられ、帰還した者をあわれみの心で歓迎してくださるお方です。さあ、今日から私たちも日々もっともっと神に近づきましょう。そのような心で礼拝をささげましょう。日々祈り、みことばを黙想して主のみまえに進み出ましょう。これが私たちが一生戦うべき霊的戦いであり、信仰者としてを生きる者の巡礼の旅です。

帰還の旅路は楽なものではありませんでした。バビロンからの帰還者のほとんどはバビロンで生まれた人たちでしたので、エルサレムを見たこともないし、バビロンからユダまでの帰り道を誰も知りませんでした。彼らを攻撃する者たちもいたし、帰国後も国と神殿の再建を妨害する勢力がいました。しかし、神は民たちは感激して泣きながら帰ってくると、私はイスラエルの父として必ず道を整えて民を導くと、エレミヤを通して約束されました。

彼らは泣きながらやって来る。

わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。
わたしは彼らを、水の流れのほとりに、
つまずくことのない平らな道に導く。
まことに、わたしはイスラエルには父であり、
エフライムはわたしの長子である。」
(エレミヤ書31:9)

愛するみなさん、私たちをとらえて離してくれないサタンの手を、信仰をもって振り切りましょう。いかなる誘惑も追い払い、神に立ち返るべきです。究極的には私たちの旅は神のおられる御国へと進み行く道のりです。もちろんその道はたやすくない。しかし、神は私たちがつまずくことがないように、私たちが祈り求めるとき力ある御手で私たちを導き支えてくださるでしょう。

ユダの民が帰り着いた故郷エルサレムは、廃墟となっていました。けれども、神はエルサレムの再びの繁栄を約束されました。

諸国の民よ、主のことばを聞け。
遠くの島々に告げ知らせよ。
「イスラエルを散らした方がこれを集め、
牧者が群れを飼うように、これを守られる」と。
主はヤコブを贖い出し、

ヤコブより強い者の手から、
これを買い戻されたからだ。
彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、

主が与える良きものに、
穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油、
羊の子、牛の子に喜び輝く。
彼らのたましいは潤った園のようになり、
もう再び、しぼむことはない。
そのとき、若い女は踊って楽しみ、

若い男も年寄りも、ともに楽しむ。
「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、
彼らの憂いを慰め、楽しませる。
祭司のたましいを髄で潤す。

わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。
──主のことば。」
(エレミヤ書31:10-14)

将来、私たちが帰還する天国は、まさにこのような神の愛と祝福に満ちたところです。この永遠なる御国へと主は私たちを導いておられます。皆さんが、からみつくすべてのものを振り払って、主に向かって前進する聖徒になられることを心から願います。主に向かって、主にもっと近く。これが私たちの進むべき方向です。

以上