みなさんは祈りの生活をしていますか。祈りはクリスチャンにとってとても大切なものですが、そもそも祈りとは何でしょうか。祈りとは「神に自分の願いを求めること」「神と対話すること」「呼吸のようなもの(呼吸を止めれば人は生きていけない)」など様々な説明がなされますが、どれも正しいと思います。
本日の聖書箇所は、イエスの2人の弟子とその母がイエスにある願いを祈り求めたところ、イエスから厳しい答えが返ってきた様子が記されています。今まで私たちは熱心に、多く、切実に祈るべきであると考えてきました。しかし、いくら切実に熱く祈っても、かえって主を悲しませる祈りがあることに気づかされます。
20そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
21そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
22イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。
23イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。
24十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。
(マタイによる福音書20:20-24)
20節のゼベダイの子らとは、十二弟子のうちのヤコブとヨハネの二人です。またお願いしたと日本語に訳された部分のギリシャ語の原文聖書で用いられている単語は、人が神に祈るときに用いられる言葉です。彼らは、イエスが王となられたときにはひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにしてほしい、つまり高い地位につけてもらいたいと祈り求めたのです。他の10人の弟子たちは、自分たちを出し抜こうとするヤコブとヨハネのふたりの兄弟たちのことで憤慨したのでした。
イエスの反応は「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない」というものでした。ここで、私たちはとても深刻な気持ちになります。私たちの祈り全てが神に届く祈りにならないのではないか、自分なりに祈っているつもりでも、主が「話にならないからもうやめなさい」と言われるかもしれないという心配です。
今まで私たちは、熱心に祈るべきだ、多く祈るべきだ、切実な心で祈るべきだ、と考えてきました。しかし、いくら熱心に祈っても、何を求めているかわからずに祈りをするなら、それは神の前で祈りにはならず、主は関心を持っていないのに私たちだけが意味のない言葉を繰り返し並べているだけにすぎないことを、本日の聖書箇所を通して悟ります。
彼らの祈りの問題点は何だったのでしょうか。この聖書箇所の前段で、イエスは次の話を弟子たちにされました。
「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、 そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。(マタイによる福音書20:18-19)
このイエスの受難の予告は、3回も弟子たちに語られたものでしたが、弟子たちはちゃんと理解していませんでした。主が十字架の死に向かって先頭に立って進んでいたのに、彼らは自分の出世だけを考えた。主のみこころを一番近いところにいた弟子たちでさえわかっていなかったのです。
ひるがえって私たちは、イエスをどれほど知っているのでしょうか。主をどんな方だと理解しているのでしょうか。そして、私たちに向けられた主の深いみこころを知ろうと努力しているでしょうか。
主のみこころに叶う祈りをした人として、ソロモンがあげられます。彼はイスラエルの王になって神から何をしてほしいかと尋ねられたとき、長寿でも富でも権力でもなく、知恵を求めました。この場合の知恵とは「正しい訴えを聞く判断力」です。神はソロモンの祈りを喜ばれ、彼が求めてもいないことさえも与えてくださいました
そこで神は彼に言われた、「あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに、 見よ、わたしはあなたの言葉にしたがって、賢い、英明な心を与える。あなたの先にはあなたに並ぶ者がなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起らないであろう。 わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう。 もしあなたが、あなたの父ダビデの歩んだように、わたしの道に歩んで、わたしの定めと命令とを守るならば、わたしはあなたの日を長くするであろう」。(列王記上3:11-14)
神がソロモンの祈りを喜ばれた理由は、民を正しく導くというソロモンの使命に合致したからです。神がある人をこの世で高い地位に据えるのは、個人的な欲心を満たすためではなく、使命のためです。ソロモンの祈りはこの神の原理によく叶ったのです。
今この時間、多くの教会で礼拝がささげられていますが、それが自分自身の満足のためであったり、ただの宗教的儀式にすぎないなら、主を悲しませるものになるでしょう。私たちは自分自身に問うべきです。私は主を喜ばせているだろうか。主のみこころを理解しているだろうか。主が願われていることを求め、それを行っているのだろうかと。
この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる。(マタイによる福音書15:8-9)
「主のみこころが行われますように」「私の祈りを通してあなたが栄光を受けられますように」「私の祈りを通して主が証しされますように」「病のいやしを通して、神に栄光を帰すことができるようにしてください」「主よどうか私の行く道を祝福してくださり、その祝福があなたを証しすることができるものになりますように」このようにいのる祈りが重要です。
神のみこころに従うとき、すべてが正常になります。イエスの左と右に座らせてくださいというような自分のためにする祈りではなく、神のみこころに従い、神の御名があがめられることを願う祈り。祈りだけでなく、礼拝が、また人生そのものがそのようになるとき、まことに祝福された人生を神様と共にあゆむことができるでしょう。
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞きいてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。(ヨハネの第1の手紙5:14)
以上