人は自分が意識している情報が自然と目に入るそうで、確かに自分の子が小さかった頃は、どこに行っても小さい子が目につきましたし、歳をとった今は、どこに行っても老人が目に付きます。これは意識の問題ではなく世の中の高齢化が進んだせいかもしれませんが、交野の町を歩いていると、本当に年を召した人たち、特に足腰が悪そうな弱い方々の姿がよく目に入ってくるのです。そんなことを思いながら今日の聖書箇所が心に留まりました。

イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。 そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。(マタイによる福音書9:35-38)

この箇所には、イエスが町々村々をめぐる姿が記録されています。イエスはどんな気持ちで人々を訪ねられたのでしょうか。イエスが見た町や村はあらゆる病気あらゆるわずらいがあり、群衆は羊飼いのいない羊のように弱り果て、倒れていたとあります。羊は弱く迷いやすい動物で、羊飼いがいなくては生きていけません。イエスの時代、民たちはローマ帝国の抑圧により苦しい生活をしていました。彼らの牧者であるはずの政治指導者や宗教指導者たちは、残念ながら彼らをあわれむ思いはありませんでした。しかし、イエスは彼らを深くあわれまれたとあります。この箇所はギリシャ語の原文聖書では「内臓が激しく動く」という意味の言葉が用いられており、イエスは内臓が揺さぶられるように心の底からの深い同情の思いを持たれたのです。人の感情で最も美しいものは、人をあわれむ心であると思います。あわれみは天国の心であり、神様の心だからです。

イエスは天の御座を離れてこの世に来られ、自らの足で苦しんでいる人々のもとに訪ねて行かれました。福音書を読むと、イエスの方から訪ねて来られる話でいっぱいです。イエスは、取税人マタイを訪ね、ベテスダの池の病人を訪ね、会堂司ヤイロの娘を訪ね、ザアカイを訪ね、その足取りは今もなお続いています。イエスは今あなたの心の扉をたたいておられるのです。あなたを訪ねて来られたイエスに心を開きましょう。そして、あらゆる悩み、あらゆる病、あらゆる己の弱さを、イエスにありのまま見せて、主よ私をあわれんで下さいと祈り求めましょう。これは、すべての祈りの基礎です。イエスのあわれみを受けたなら、真の平安が心に満ちるでしょう。

イエスが町と村を巡り歩かれたのは、メシア(救い主)としての働きをなさるためでした。メシアとしての具体的な働きの内容は、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気をおいやしになったと書いてあるように、教育と宣教と癒しの三つです。当時、会堂にいる律法学者やパリサイ人は、守ることが不可能な律法を民衆に押し付け、守ることができない弱い人を軽蔑しました。しかし、イエスは律法学者やパリサイ人とは異なる新しい教えを説かれました。また、神の国の福音をのべ伝え、あらゆる病気を癒やされたのです。イエスは病気を癒やすことでご自身がメシアであることを示されたのでした。

これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。(マタイによる福音書8:17)

私たちもイエスのように他者をあわれむ心をもって生きるべきです。外から見るとあわれみなど必要としないように見える人にも、隠された痛みはあるものです。いや、あわれみが必要ない人はひとりもいません。なぜなら、全ての人は死に向かって進んで行く存在だからです。だから互いにあわれむべきです。イエスは、あわれむ心をもって生きるひとびとを探しておられます。私たちがそのような人になれますよう心から祈ります。

マザーテレサの言葉です。
群衆を前にしても私は決して助けようとしません。それが一人であれば、私は助けようとします
百人の人のことを考えて立ち止まるより、目の前のたった一人の人だけを考えて行動しましょう。
自分がしていることは、一滴の水のように小さなことかもしれないが、この一滴なしに大海は成り立たないのです。

世の全ての人を同時に愛せなくても、今日出会う人、いま側にいる人をあわれみ、愛しましょう。みなさんにお願いしたいことは、あなたのそばにいる主にある兄弟姉妹に対して家族のようになってください。兄弟のように 姉妹のように、息子のように、娘のようになってください。本当に愛と助けが必要な方を一人でも多く心にとめて、その人のために本人が気づいてなくてもその人のために祈り、痛みと悲しみを共にできるなら、この交野ベタニヤ教会がなぐさめと愛の溢れる天国になるでしょう。皆さんがイエスのあわれみを受け、その受けたあわれみで他の人々をあわれむ生き方をされるようにと願います。これが、混乱するこの最後の時代を生きる生き方なのです。

以上