今日礼拝に来られる時、みなさんはどんな心で来られましたか? 私は喜びと感謝の心で来ることができました。みなさんと一緒に礼拝をささげることができ、しかも私のような足りない者が御言葉を伝えることができる。本当に私は幸せです。今日は次の聖書箇所を通して、喜びと感謝に満ちて生きるための秘訣を学びたいと思います。

それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。 祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕 彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、 絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。(ルカによる福音書24:50-53)

1.私たちは祝福されている
十字架の上で死なれたイエス・キリストは、墓に葬られ、三日目に復活された後、40日にわたって弟子たちに現れて神の国のことを伝えられました。今日の聖書箇所は、イエスが最後に弟子たちに御言葉を語られ、弟子たちを祝福し、そして昇天された時のことが記されています。

イエスは弟子たちを祝福されましたが、これは同時に私たちに向けられた祝福でもあります。私たちは祝福を受けた人たちです。自分自身が祝福を受けたという自意識は人生においてとても重要です。イスラエルの民をエジプトから導き出したモーセが、彼らに最後に残した言葉も祝福の言葉でした。

イスラエルよ、あなたはしあわせである。だれがあなたのように、主に救われた民があるであろうか。(33:29申命記)

主が共におられる私たちもまた、なんと幸せであることでしょうか。しかし、残念ながら日本は幸福度が世界でかなり下の国です。こんなに豊かな国に住んでいながらも人々は幸せを感じないのです。幸せを感じないから喜びもない。幸せと喜びを知らない人生が最後に行きつくところが犯罪であり、破滅です。

私たち人間は、神の姿に似せて創造されました。この神は、ひとりの御子イエスをおしみなく私たちに与えてくださり、私たちの罪の身代わりとして刑罰を受け、十字架で死なれるようにまでして私たちを愛しておられ、この愛のみわざによってイエス・キリストを信じる者に永遠の命を得させてくださったのです。神は私たち一人ひとりをわたしの目には、あなたは高価で尊い(イザヤ書43:4)と言っておられます。このような神様の愛を信じるものは、決してむなしい心にとらわれることはありません。これが私たちが受けた神からの祝福です。

2.苦難の中で満ち溢れる喜びと讃美
イエスは弟子たちに、エルサレムに留まるように命じられました。しかし、エルサレムはイエスを十字架にかけて殺した者たちがいる場所であり、イエスと共にいた弟子たちを捕らえようと待ち構えている可能性がありました。それでも、彼らはイエスの言葉に従いました。そんな弟子たちはいったいどんな様子であったか。何と彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、 絶えず宮にいて、神をほめたたえていたのですから驚きです。

私たちにもこのような喜びと讃美が満ち溢れますように切に祈ります。いかなる苦しい境遇でも喜びを失わず、讃美を主にささげて、人生において直面する「エルサレム」を克服できますようにと切に願います。

ここで「祝福」と訳されている単語はギリシャ語の原文聖書では「エウロゲオ」という言葉です。この単語は「良い」という意味の「エウ」と、「言葉」という意味の「ロゴス」の合成語です。つまり、エウロゲオとは「良い言葉」と言う意味になります。

また、「神をほめたたえていた」と書かれている部分も、原文では「エウロゲオ」が用いられています。つまり、人が神にさげる「良い言葉」が「讃美」であり、神が私たちに与えて下さる「良い言葉」が「祝福」なのです。良い言葉を話しかけたい相手は、愛する人です。主は私たちを愛しておられるゆえに良い言葉(祝福)を与え、私たちも主を愛するゆえに良い言葉(讃美)を捧げるのです。

パウロとシラスは牢獄の中から神を讃美しました。彼らは主にある喜びに溢れていたので、牢獄という困難な場所にいても心が満たされていたのです。パウロはこう語っています。

わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。(ピリピ人への手紙1:21)

今私が受ける苦難は、キリストが受けられた苦難に比較することはできないという心を持つ時、神様の素晴らしい御業が起きます。パウロとシラスが牢獄の中から神を讃美していると、突然、大地震が起って、獄の土台が揺れ動き、戸は全部たちまち開いて、みんなの者の鎖が解けてしまうという奇跡が起きたのでした。(使徒行伝16:26)

3.今、この瞬間を喜ぶ
弟子たちは、いつかエルサレムを離れる日が来れば苦しい境遇を脱して幸せになるであろう、というふうには考えてはいなかったと思います。幸せを未来に先延ばしすることはせず、彼らは苦しい境遇にあっても今を喜んでいました。

ベトナム生まれのグエン・ヴァン・トゥアン枢機卿は、1975年にサイゴン大司教になられましたが、同年のサイゴン陥落で共産主義政権に捕らえられ、13年間牢獄に入れられ、そのうち10年間は独房の中で過ごしました。彼は、いつか牢獄から出られさえすれば幸せになるとは考えず、今この瞬間を愛しました。彼が捧げた祈りです。

イエス様、私はもう待つことはしません。今のこの瞬間を生きていきます。線は数えきれないほどの点で結ばれて出来ています。私たちの人生も、数えきれないほどの点の結びあいです。私が完璧にすべての点を配列するならば、線はまっすぐになるでしょう。もっと完璧に毎瞬間を生きられるようにしてください。そうすれば私の人生は感謝に満ち溢れるようになるでしょう。

最近、私は主の臨在を親密に感じることがよくあります。弱く足りないところの多い私が、講壇の上から皆さんに御言葉を伝える時、主が共におられることを感じるのです。礼拝ができること、御言葉を分かち合うこと、すべての瞬間が祝福であると強く感じます。今が私にとって一番幸せな瞬間です。後のことを考えず、毎瞬間、神の祝福をいただく者となりましょう。

1992年に制作された「シティ・オブ・ジョイ(歓喜の街)」という映画があります。アメリカ人の医者マックスは一人の少女を救えなかったことで自分の無力さに絶望し、インドのコルカタのスラム街を訪れます。ある日強盗に持ち物をすべて奪われましたが貧しい人たちの助けを受け、やがてスラム街の病院で働きながら国境と人種を超えた愛を分け合うようになります。スラム街で懸命に生きる人々の胸に喜びがあることを見せてくれる感動的な映画です。

私たちの現実も同じではないでしょうか。病気があり、子どものことで胸がえぐられるような苦しみがあり、時には自分を恨みたくなることもあるかもしれない。愛する者に先立たれ一人でどうやって生きて行けばよいだろうと叫びたくなる方もおられるでしょう。しかし、私たちは神様から祝福されている幸せな者なのです。私たちも歓喜の街の市民となれるよう生きるべきです。そのための秘訣があります。弟子たちが絶えず宮にいて、神をほめたたえていたとあるように、苦しい街であるエルサレムの中で、神様の慰めのある場所が宮でした。環境は厳しかったけれど、神の宮でなぐさめをいただいて環境に勝つようにされたのです。

つたない祈りでもいいのです。主の前にひざまずくことができますように、主の宮を訪ね求めることが出来ますように、いつも礼拝者の心で、どこにいてもイエス様を見上げられますようにと願います。

以上