人には、他人から認められたい、ほめられたい、良く思われたいという欲求があります。自分が優れていると思うえば事あるごとに自慢する。これは人間の本能と言えるかもしれません。しかし、これが度を過ぎると、認められるどころか憎まれたり陰口を言われたりするので気を付けねばなりません。自分で自分を誇る姿は美しくありませんし、その姿は神様からもいつわりに見えるので注意が必要です。
紀元前700年頃のユダ王国のヒゼキヤ王が病気にかかり、これ以上は生きながらえることはできないと宣告されたとき、彼は涙を流して神に祈り求めました。神は「わたしはあなたの祈を聞いた。あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたのよわいを十五年増そう。 わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、この町を守ろう」(イザヤ書38:5-6)と、彼の祈りに答えられました。
すると、このうわさが広がり、バビロンの王が全快祝いのために使者をつかわして来ました。ヒゼキヤは喜んで彼らを迎え入れて、宝物の蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、ならびにその倉庫にあるすべての物を彼らに見せたのです。ヒゼキヤは、神の恵みを誇らずに、家にある物も国にある物も一つ残らず得意になって見せびらかし、あろうことか武器倉までバビロンの使者に見せて自慢したのです。誰よりも神の恵みを受けた者であるのに、神を誇ることをせず自分を誇ったヒゼキヤ。この大きな失敗が、後にあのバビロン捕囚をまねく一因となってしまったのです。
そこでイザヤはヒゼキヤに言った、「万軍の主の言葉を聞きなさい。 見よ、すべてあなたの家にある物およびあなたの先祖たちが今日までに積みたくわえた物がバビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはない、と主が言われます。 また、あなたの身から出るあなたの子たちも連れ去られて、バビロンの王の宮殿において宦官となるでしょう」(イザヤ書39:5-7)
このように自分を誇ることを神様は喜ばれません。では、私たちは何も誇ってはならないのでしょうか。いえ、神に喜ばれる誇りがあります。それによってもっと大きな祝福を受けられる自慢があるのです。それは、どんな自慢でしょうか。
1.神を知っていることを誇る
主はこう言われる、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。 誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」(エレミヤ書9:23-24)
神を知っていることに勝るものはありません。この世の富は一瞬で灰になり、この世の知識は露のごとく消え去ります。人間の知恵でつくったバベルの塔はくずれました。自分の知恵や力や富を自慢せず、知恵と力と富を与えて下さったのは神様であることを知り、神様を誇ることが、祝福の道なのです。
主を恐れることは知識のはじめである(箴言1:7)
わたしは神によって、そのみ言葉をほめたたえます。わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。肉なる者はわたしに何をなし得ましょうか。(詩編56:4)
そして、このような神様を伝えることが、人を救う道であることを忘れないでください。
2.自分の弱さを誇る
神様の力は、私たちの強さの中にではなく、弱さの中にあらわれます。自分の良い所を自慢せず、自分の欠点を誇ること。これが神の力が宿る秘訣であると使徒パウロは語りました。
主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(コリント人への第2の手紙12:9-10)
聖書は、私たち人間は土の器であると言っています。こわれやすく、見ばえのしない土の器。しかし、そんな土の器の内に、はかり知れない力を持つお方がおられるのです。
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。(コリント人への第2の手紙4:7)
私には自慢できるものが何もないと思う人は、主がそのようなあなたの内におられることを忘れないでください。神様を忘れて自分中心にして生きれば、真の人生の意味と目的は見えてきません。神様を心の中心にお迎えして「神様を証しすることのできる、人々に神様の愛を伝えることのできる器とならせて下さい」と祈る者になられることを心から願います。
自分の弱さ、罪、無能、欠点を認め、神に頼るものを神は喜ばれます。神は、罪に苦しむ者にキリストの十字架の血潮で罪のゆるしを与え、自分の弱さに悩む者に強さを与え、無能に悩む者に力を与え、心の貧しさを主の前に注ぎだす者に永遠に枯れることのない命の水を飲ませてくださるお方です。自分の弱さを誇ることによって自分を低くすれば、主がその人を高くしてくださり、尊い器として人生の中で必ず用いてくださいます。
誇る者は主を誇るべきである。 自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。(コリント人への第2の手紙10:17)
おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。(ルカによる福音書14:11)
3.十字架を誇る
私たちは地獄に行くべき罪びとであったのに、イエス・キリストの十字架の血潮のあがないを信じることで救いを受け、天国の民となったのです。この恵みを、何をもってお返しすることができるでしょうか。どれだけ涙を流しても報いることはできず、たとえ万の口があっても感謝と讃美を尽くすことはできません。だから、十字架以外に誇りとするものは決してないと、パウロは告白しています。
私には、イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。(ガラテヤ人への手紙6:14)
私たちは十字架の影にとどまるべきであるのに、自分が十字架の前に出て自分を誇ろうとするときがあります。今日からは、イエス様の十字架だけを誇りとして生きる人生になるようにとお祈りいたします。
以上