人の行動には目的があります。病院に行くのは、治療を受けて健康になるためです。では、神を信じる目的は何でしょうか。

 イスラエルの民は、430年間エジプトで奴隷生活をしいられましたが、指導者モーセに率いられて出エジプトを果たしました。そして豊穣の土地カナンをめざして旅を続けました。彼らにとってカナンは、神様が与えて下さった約束の地であり、そこに行くことを彼らはずっと夢見ていたのでした。

 エジプトを出てから3か月ほどたった頃、モーセはシナイ山に登り、そこで40日40夜祈りをささげ、神から石の板に刻んだ十戒を授かりました。

 ところがモーセが山を下りると、民たちはとんでもない事件を起こしていました。モーセが山からなかなか帰ってこないために彼らは不安になり、金を集めて子牛の像を鋳造し、それを自分たちの神として祭壇に祭ったのです。神が強く禁止した偶像崇拝という大罪を彼らはおかしたのでした。

 モーセは民たちに「あなたがたは大いなる罪を犯した。それで今、わたしは主のもとに上って行く。あなたがたの罪を償うことが、できるかも知れない」(出エジプト記32:30)と言って、民の罪を償うために再び山に登り、神にとりなしの祈りをささげました。

 「ああ、この民は大いなる罪を犯し、自分のために金の神を造りました。 今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば――。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」(出エジプト記32:31-32)  このようにモーセは「命の書」から私の名前を消し去ってくださいと、自らの命と引き換えに民の罪のゆるしを求めました。

 この祈りがかなえられ、「今あなたは行って、わたしがあなたに告げたところに民を導きなさい。」(出エジプト記32:34)と、神はカナンに民たちを導くことをゆるされました。しかし、喜ぶにはまだ早すぎました。

 この神の答えには、続いて但し書きがあったのです。「ただし刑罰の日に、わたしは彼らの罪を罰するであろう」(出エジプト記32:34)と。神の刑罰とは何だったのでしょうか。それはカナンに導くけれども「一緒にはのぼらないであろう」(出エジプト記33:3)というものでした。

 この言葉は、カナンに入ることが目的であった人にとっては気にするような問題ではなかったでしょう。しかし、いくら豊穣の地カナンに入れても、神様が一緒にいなければ祝福にならないことを知っていた民は、この悪い知らせを聞いて憂いました(出エジプト記33:4)

 人は、それぞれのカナンを心の中に持っています。何かを成し遂げたい、到達したいという思いがあり、成功することが信仰の目的だと思っています。しかし、カナンに入ることが信仰の目的ではありません。私たちが神様を信じる目的は、神様と一緒にいるためであります。これが、神様を信じる一番重要な目的なのです。 

 ですから、いつも神様と一緒にいたモーセは、約束の地カナンに入れず世を去ったけれども、神様に見捨てられた失敗者ではなく、むしろ誰よりも優れた信仰者、神に愛される最高のリーダーとして聖書に記録されています。
 イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起らなかった。モーセは主が顔を合わせて知られた者であった。 主はエジプトの地で彼をパロとそのすべての家来およびその全地につかわして、もろもろのしるしと不思議を行わせられた。 モーセはイスラエルのすべての人の前で大いなる力をあらわし、大いなる恐るべき事をおこなった。(申命記34:10-12)

 その後のイスラエルの歴史を見ると、苦労してカナンに入ることができましたが、イスラエルは何度も偶像崇拝を行い、彼らの中から真の神様を追い出したので、バビロンに滅ぼされました。神様が一緒でなかったのでカナンは滅亡したのです。

 私たちもモーセのようになれるよう願います。神様が一緒におられ、神様が導く人生になるよう祈りましょう。交野ベタニヤ教会の歩みがそうであることを願います。いくらよい働きをしても、そこに神様が一緒におられないならば、すべては無駄です。礼拝も敬虔な生活も伝道もすべてそうです。第一の目的を神様と一緒にするところに置かれるように心から願います。

 神様と共に歩む人は、その顔から、発する言葉から、その人生から、神様の香りがします。神様と一緒であるゆえに光を放つのです。神様が共におられるゆえに、神様をあかしすることのできる祝福された人生に導かれるのです。そのような人は、神様のみ心に感動し、み心を語り、行い、神様の心で愛し、ゆるし、仕えます。神様が一緒におられるゆえに明日を恐れません。そのような人がまことに祝福を受けた人です。

 みなさん一人一人が、願っているカナンに入れるように願います。しかし、その前に、神様と一緒にいること、神様から一瞬たりとも離れることがない人生を歩まれますことを、心から主の前に祈り、また祈り、祈ります。

以上