今日は母の日です。旧約聖書に、あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。(出エジプト記20:12)とあります。私たちはみな父と母から生まれました。私たちがいただいた命。その根源は神にあります。命は、私たちのものである以前に神のものなのです。この世における最大の神秘は、生命ではないでしょうか。赤ちゃんに乳をむ方法を誰が教えたでしょう。はじめは両足をバタバタしているだけですが、誰も教えないのに寝返りするようになり、いつの間にか自分でハイハイするようになります。無神論者は命は偶然に生まれたと主張しますが、生命の神秘と不思議を見れば偶然にできたとは到底思えません。聖書が教えるとおり、命の息を吹き入れられた神のみわざによって人は生きるものとなりました。命は神からの最高の祝福であり奇跡なのです。
1.笑わせてくださる神様
旧約聖書に出てくるアブラハムとサラの間には、長らく子ができませんでした。しかし、神様はアブラハムに子孫が繁栄する約束をされました。そしてついに神は、なんとアブラハムが100歳、サラが99歳になったときに、息子イサクが生まれるようにされたのです。どれほどの感激であったでしょう。イサクは夫婦にとって最高の祝福であり、神秘であり、奇跡でした。
主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは生れた子、サラが産んだ男の子の名をイサクと名づけた。アブラハムは神が命じられたように八日目にその子イサクに割礼を施した。アブラハムはその子イサクが生れた時百歳であった。そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。 また言った、「サラが子に乳を飲ませるだろうと、だれがアブラハムに言い得たであろう。それなのに、わたしは彼が年とってから、子を産んだ」。(創世記21:1-7)
神はわたしを笑わせてくださったとあります。まことに、アーメンです。私たちの神様は、いつも私たちが笑うようにしてあげるべきである、という負担を感じておられるようです。そうです、神様は私たちが笑えるようにして下さる素晴らしいお方なのです。ですから「神様、どうか私を笑わせてください!」と祈るべきであります。
イサクは笑いという意味です。神様は超高齢になった二人に命を授けるという人間的には想像さえできないことをなさり、アブラハム夫婦には喜びと感謝の笑いがあふれました。命こそ神様がなさる最高の奇跡であり最高の祝福です。みなさんの家庭にも、主が命の祝福を与え下さるようにと祈ります。そして、子どもを願っている家庭に赤ちゃんの泣き声を聞かせてくださるようにと心から祈ります。
2.与えられた命を心行くまで楽しむ
神様が一番望んでおられることは、私たちが忍耐し我慢することではなく、人生を楽しく生きることです。イスラエルの民に、荒野で食べものと着る服を神が与え続けて下さった事実は、命に対する神の配慮です。神は全ての命に配慮しておられるのです。神は、私たちが命を維持し楽しめるように祝福し、必要の全てを与えてくださいます。
命は神様から来たこと。命がこの世で最も大切であること。私たちが命を心行くまで楽しむこと。これらは神様が願っておられることであると理解させてくれるのが信仰です。すなわち信仰は、私たちを命の祝祭に招待してくれるのです。ですから、信仰は決して窮屈なものではありません。また、我慢して儀式的に礼拝を捧げることで信仰は得られません。そのようなことを神様は望んでおられないのです。
信仰が深まれば深まるほど、命をもっと大切にするようになります。命を愛せるようになります。だから神を信じる人たちの心には、父と母を敬えという御言葉が神様からの幸せな声として聞こえてくるのです。わが子の命を見つめる時、わが子と共におられる神の臨在を感じるようになります。だから、信仰者が命を虐待したり放棄するようなことは無いと言いきれます。
多くの人は、命を愛する方法をよく知りません。したいことをするのが愛であると錯覚し、欲望に従って食べたいものを食べ、やりたいことを全てやろうとします。しかし、そのような行いは神様が与えて下さった命をむしばむことです。みなさんが、節制する生活、「私には乏しいことがない」という信仰の告白を、主の前に捧げられますようにと祈ります。聖書の御言葉どおりに正しく生きることこそ、命を愛することです。
3.復活の命
私たちの中にある命は、アダムのおかした罪によってこわれ、古くなり衰えながら終わってしまう命へと転落してしまいました。しかし、イエスは死に打ち勝ち、復活されました。イエスの十字架の死と復活を信じた私たちも、イエスのように復活の命を得るようになります。その命は、天国で楽しむことができる永遠の命です。キリスト教は命の宗教。イエス・キリストがこの世に来られたのは、命のためなのです。
盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。(ヨハネによる福音書10:10)
わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。(ヨハネによる福音書10:27-28)
ですから、イエス様の愛を知れば、命に感謝できるようになります。生かされていることに感謝し、朝目ざめるごとに感謝し、心臓の音に喜びを感じるようになります。痛みと悲しみを経験することがあっても、主の守りの中で命の尊さを学ぶことがでます。命自体が祝福であり奇跡なのです。神は一瞬たりとも忘れることなく、あなたの命を守っておられます。私たちの体の中の心臓の鼓動を感じましょう。そして、神が吹き入れてくださった命の力が、今この瞬間も躍動していることを感じましょう。
4.神は約束を守る方
人間は、言葉と行動が異なる時が多くあります。しかし、神様は言葉と行動が常に一致しています。天地創造において、神がまず「光あれ」と言われると光がありました。御言葉によって、光が創られ、そして万物が創造されたのです。高齢のサラに子が生まれたのも、ご自身が以前言われた言葉どおりに神は行われたのです。
主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。 サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
このように神様は真実な方、御言葉を必ず実行するお方であります。神のみわざを体験し恵みを享受したいと願うなら、御言葉を信じ、そして告白しなければなりません。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからです(ローマ人への手紙10:10)。
約束を守られる真実な神様であるからこそ、私たちは希望をもつことができます。あなたが「御言葉通りになると信じます」と告白するとき、主は「行け、あなたの信じたとおりになるように」(マタイによる福音書8:13)と祝福してくださり、あなたの命が定められたその時まで、あなたの命を守り助けて下さるでしょう。
5.家庭は祝福を体験し、神の命令に応答する場所
このような素晴らしい命の奇跡と祝福を体験する場所は、家庭です。すべての命は家庭に始まり、家庭で育つのです。家庭は、神様が与える命の祝福と、生きる喜びを楽しむことができるところです。家庭を与えて下さった神様に感謝しましょう。父と母を与えて下さった神様に感謝しましょう。愛する家族を与えて下さった神様に感謝しましょう。愛と、感謝と、命の祝福が、家庭の中に満ちあふれますように。
また、家庭は命を与えて下さった神様に応答する場所でもあります。アブラハムは神が命じられたように八日目にその子イサクに割礼を施したと書いてあるように、アブラハムは神に応答しました。してもしなくてもいいと軽く考えないで、御言葉を命令として受け入れて従順しました。みなさんの家庭が、神の祝福を十分に享受しようとするなら、神の御言葉に従うことが大切です。家庭の価値基準を御言葉に置くこと。それが命の祝福を豊かに楽しむ家庭になる秘訣です。
御言葉よりも本能的な欲求に従って生きるなら、神様が与えて下さった大切な命を食いちぎって、くずれるようになります。みなさん、命は奇跡です、今日生きていることに感謝しましょう。喜びをもって主を礼拝をして、命の祝福を家庭の中で豊かに共有することができますように。
以上