神が人間に与えてくださった最大のプレゼントは親であります。なぜなら、親によって今日の自分が存在しているからです。もしかすると、親から受けた言葉などが深い傷となって今でも心を痛めている、という方もおられるもしれません。しかし、それでも、あなたが存在し得るのは、あなたの両親がいたからです。だから親に感謝しなければなりません。そして親を与えてくださった神に感謝しなければなりません。親の愛は、下向きに注がれる愛です。そして、その愛の始まりは神の愛なのであります。

1.親の愛について
 親は子にいつも良いものを与えたいと思っています。親の愛は、無条件の愛です。だから、私たちは親の愛に感謝しながら、愛でひとつになる家庭を作っていかなければなりません。

 子も、親を真心から愛し、親を敬わなければなりません。旧約聖書の「十戒」のうち、第1から第4の戒めは神についての戒めであり、第5から第10は人に対する戒めですが、第5の戒め、つまり人に対する最初の戒めはあなたの父と母を敬え。」(出エジプト記20:12前段です。十戒を通して、神は神を愛することの次に親を敬わなければならないことを強調されたのです。

 それだけでなく、神は親を敬う者に長寿の恵みを約束されました。あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。」(出エジプト記20:12

2.神様の愛について
 聖書は、私たちに向けられている神様の愛について、次のように語っています。 「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」 (マタイによる福音書7:9-11

 私たちは(自分自身が一番よく知っていますけれども)、自己中心的であり、怒りやすい者であり、すぐに人を批判する者であり、不平不満をつぶやく者であります。私たちは、罪の塊(かたまり)なのです。 優しい顔を見せているけれども、心の中にはうずまく怒りと憎しみと不満と不安と恐れがあり、それらが潜在的な意識の中に隠れているのです。

 そのような罪ある私たちであるにもかかわらず、いったい何による恵みなのか、神は私たちをわが子のように無条件に愛してくださり、しかも神の方から愛してくださり、神の独り子イエス・キリストを私たちに送り、私たちの身代わりに十字架につけて、私たちを罪から救ってくださったのです。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。 」(ヨハネの第1の手紙4:10

しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ人への手紙)

 このような愛の神様を信じるということは、一体何なのでしょうか。信じ込もうとする気持ちでしょうか。いえ、信じ込むのではなく、心から信頼することです。そして期待することです。心から主を信頼し、主に期待する者に、主は「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」(ヨハネによる福音書14:18) と言ってくださり、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイによる福音書28:20)と約束してくださるのです。

3.愛の共同体について

 このように、神は私たちを愛してくださっているので、私たちも互いに愛し合わなければなりません。教会は愛の共同体とならなければなりません。そして私たちの周りにいる、疎外されている人、孤独な人、苦しみの中で問題を抱えておられる人を、神の愛でケアしなければなりません。「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」(ヨハネの第1の手紙 4:11-12

 教会の中で クリスチャンどうしで最もよく用いられる言葉は、やはり「愛」だと思います。同時に、私たちに最も足りないものも「愛」ではないでしょうか。今、私たちは自分の姿を振り返り、悔い改めて、本当に私たちの周りで苦しんでいる人々をケアし、それらの人々を愛していく者にならなければなりません。

 そのような行いは、実は、神様にすることなのです。イエスは、私たちがやがて裁きの座につくときに、このようなやり取りがあると言われました。

「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。 

そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。

 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」(マタイによる福音書25:34-40

 決してクリスチャン同士で争ったり、喧嘩したり、相手を批判してはなりません。信徒間の争いについて、聖書はこのように警告します。「律法全体は、『あなたの隣り人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。」(ガラテヤ 5:14-15)

 相手を滅ぼしてしまいたいという思いを持っている時があるかもしれません。しかし、それは自分を滅びに導くことです。愛は、人の過ちをゆるすことです。愛は、人の弱さを知ることです。難しい話ではありません。助けを必要とする人に手を差し伸べることが愛なのです。

 イエスが自分を十字架に釘づける人々をゆるされたように、私たちも隣人をゆるさなければなりません。そのようなことが本当にできるのでしょうか。それは祈らなければできません。イエスはこう祈りなさいと言われました。「私たちの負い目をお赦(ゆる)しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」(マタイによる福音書6:12)

 エペソ人への手紙には、こう書かれています。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ人への手紙4:32)
 皆さん、 胸に手を置いて、自分は本当に親切で、心の優しい人だろうかと考えてみてください。自分に優しくしてくれる人には優しいけれど、そうではない人に対して優しい心で接しているだろうかと。

 特に教会では、無慈悲や憤りや怒りを遠ざけなければなりません。また、人をそしることをしてはなりません。信徒間で良い行いをして、イエス様がされたように、信徒もお互いを憐れみ、ゆるさなければなりません。主の愛で相手を愛さなければなりません。互いに愛し合うとき、私たちの人生に神様の恵みと祝福と憐れみと奇跡が満ちあふれるようになります。私たちみんなで、教会と、家庭と、社会の中で、美しい愛の共同体を作って行こうではありませんか。

 特に親を、年老いた親を大切に、それが自分の親であれ、夫や妻の親であれ、親を大切にしなければなりません。まだご両親が健在であるなら、天国に行かれるその時までしっかりと仕えてください。親が亡くなったあとで思い出すことはみんな同じだと思います。あの時もっと良くしていたら。。。

 良くするとは一体何でしょうか。それは、顔をよく見せることです。そばに座ってあげることです。よく話を聞いてあげることです。私は、親が亡くなってだいぶ経った今でも、本当に情けない息子ですけれども、もっと親に電話でもしてあげればよかった、顔を見せてあげたらよかった、話を聞いてあげたらよかったと思い返すのです。
 愛を実践し、神に栄光を帰する皆さんとなることを、主の御名によって祝福しお祈りいたします。

以上