新約聖書の「コリント人への第1の手紙」は、使徒パウロが紀元55年頃にコリントの教会の信徒に書き送ったものです。パウロはさきにこの地を訪れてコリントの人々に福音を伝道し教会を建設しました。ところがパウロが離れた後、コリントの教会では分派問題や不品行など多くの問題が起き、それを知ったパウロはエペソ滞在中にこの手紙を送ったのです。
パウロはこの手紙の中で、聖餐式についての教訓を語っています。当時コリントの教会では各自が食べ物を持ちよって一緒に食べる「愛餐(あいさん)」が行われました。私たちの教会でも以前は愛餐会をしてみんなで楽しく食事をしましたね。パウロはコリント教会の愛餐について、「あなたがたをほめるわけにはいかない。というのは、あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。」(コリント人への第1の手紙11:17)と、厳しい言葉で叱責しています。
なぜなら、本来は兄弟愛を分かち合うべき愛餐なのにそこに「分争」があって「食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末」(11:18,21)と、貧しい人たちは空腹のまま放置され、裕福な人たちは自分たちだけでぜいたくな食べ物を我先にと食べて飲んで酔っぱらい「神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめる」(11:22)ことになっていたからです。
私たちは月に一度、日曜礼拝の中でパンとぶどう酒をいただく聖餐式(せいさんしき)を行いますが、当時の聖餐式は、愛餐の後で洗礼を受けた人だけが残って行われていました。しかし、裕福な者と貧しい者が分裂し、裕福な者だけが食べたり飲んだりおまけに酔っぱらったりする愛餐のあとで、どうして敬虔な聖餐式を行うことができるでしょうか。パウロは「主の晩餐を守ることができないでいる。」(11:20)と力説しています。
このようにコリント教会員たちを叱責したのちに、パウロは聖餐式の真の意味について説明しています。
わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。(11:23-26)
この箇所から、聖餐式には二つの意義があることが読み取れます。
一つ目の意義は、「わたしを記念するため」と二度言われていますが、「記念」することです。「記念」とは「忘れることなく記憶し、それを思い起こす」ことです。私は今になって、苦労して私を育て、すべてを惜しむことなく与えて下さったお父さんお母さんの愛を思い起こします。記念するとはこのように忘れることなく記憶しこれを思い起こすことです。
旧約時代、エジプトで奴隷となって苦しめられたイスラエルの民に向かって神は「この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。」(出エジプト記12:14)と言われました。この日とは、エジプトで生まれた初子がすべて死ぬという恐ろしい災いが起きた日です。その夜、イスラエルの民は子羊をほふってその血を”かもい“と門柱に塗ることで守られました。死の災いが子羊の血が塗られている家を過ぎ越したことから、この出来事をイスラエルの民が「記念」すなわち「忘れることなく記憶し思い起こす」ために、「過ぎ越しの祭り」が制定されました。
過ぎ越しの祭りでは「過ぎ越しの食事」が行われます。イエスと弟子たちの「最後の晩餐」は、この過ぎ越しの食事でありました。イエスは最後の晩餐において、十字架の上で裂かれる自身の身体と流される血を記念するために、聖餐を制定されたのです。
イエスは、私たちが罪のゆえに受けるべき刑罰を身代わりとなって受けられたのです。やりに刺されて体を裂かれ、流された血によって私たちのすべての罪と不義は洗い清められました。私たちはイエスの身体と血を通して救いを受けました。その打たれた傷によって私たちの病は癒されました。イエスは私たちの不義のために傷つけられ死なれたのです。そのことで私たちは罪から救われて永遠の命の希望を取り戻しました。「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」(へブル人への手紙9:22)
イスラエルの民が過ぎ越しの恵みを記念すべきであったように、私たちは過ぎ越しの子羊のように体を裂かれ血を流されたイエスの十字架の救いの恵みを記念しなければなりません。決して忘れることなく記憶し、聖餐式のたびに思い起こして深く深く感謝すべきです。
聖餐式の二つ目の意義は「伝道」することです。「あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」とあるように、イエスの十字架と復活による救いの恵みを、イエスが再び来られる再臨の時まで全世界に伝えることが聖餐のもうひとつの意義なのです。
以上のような「記念」と「伝道」が初代教会の時代から今日に至るまで反復して行われてきました。そのため福音が私たちのところにまで届けられたのです。私たち交野ベタニヤ教会のみんなが、この二つの使命をよく果たされますよう願います。
聖餐式に臨むときにはぜひ思い起こしてください。罪によって滅びるしかない私のようなもののために十字架にかかってくださり、死と復活を通して救いを与えて下さった主イエスを思い起こしながら、聖餐にあずかったら病が癒されるということだけを思い出すのでなく、愛する家族が救われるよう祈り、時にはできればその方々を聖餐式に招いてください。それが記念することであり伝道することであることを、くれぐれも聖餐を受けるみなさんの心にずっと刻みつけられますように祈ります。
以上