キリスト教信仰の核心は、神を知ることです。神を正しく知らなければ、正しい信仰を持つことはできません。神を知らない信仰は、もはや信仰とは言えず、ただの自己満足か偶像崇拝にすぎません。ホセア預言者はこう言いました。

わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。(ホセア書6:3)

イエスは、神を知ることができるのは、知恵のある賢い者ではなく、幼な子であると言われました。

天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。 (マタイによる福音書11:25)

ここで知恵のある者や賢い者とは、パリサイ人や律法学者といった当時のユダヤ社会の指導者たちのことです。彼らは、自分は誰よりも賢く誰よりも神をよく知っていると自負していました。

また、誰よりも多くイエスがなされた奇跡を経験したにもかかわらず、神を知らない人たちがいました。それは、コラジン、ベツサイダ、カペナウムの町の人たちでした。イエスはこれらの町で、病気を癒やし、死人を生き返らせ、悪霊を追い出す奇跡を数多くなさいましたが、彼らの態度は実に高慢であったため、イエスは彼らを叱責されました。

それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。 「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。 しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。 ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。 しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。(マタイによる福音書11:20-24)

イエスから多くの教えをいただき、目の前で力あるわざを経験しても、神を正しく知ることができない人は、もっとも不幸な人たちであると言えるでしょう。なぜ彼らは神を知ることがなかったのでしょうか。それは、イエスのところに来ないからです。イエスは常に人々を招かれました。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイによる福音書11:28)

パリサイ人や律法学者たちは、イエスのところに来ないどころか、イエスに来る人たちのことを嘲笑い、あるいは来てもイエスを知るためではなく非難し論争するためでした。そして彼らはイエスを十字架につけました。誰よりも神を知っていると言う彼らが、神の御子を十字架につけたのです。

また、コラジン、ベツサイダ、カペナウムの人たちは、イエスの前に来ることは来たが、ただ通り過ぎただけでした。主を知るためには、その胸に抱かれて温かさを感じなければなりません。主の恵みを受けたにもかかわらず、謙遜になることなく感謝もしないのは、主の胸の温かさを知らないからです。主は、自分の所に来て抱かれる幼な子のような人たちに、主をよく知るようにされたのです。それが神の御心なのです。

天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。 父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。(マタイによる福音書11:25-26)

幼な子のような人たちは、パリサイ人や律法学者がおどしてもイエスのところに来て、イエスの御言葉に従順しました。そして彼らは主の胸に抱かれてその温かさを知りました。抱かれたことのない人は温かさを知りません。これは体験するものであり理論ではありません。信仰は理論でなく体験なのです。この体験をした人は、主のためならば自分の体裁を捨ててでも、どんなこともします。また、いかなる荷も重く感じません。彼らは主のために荷を背負ってでも喜びをもって踊り始めます。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイによる福音書11:29-30)

主を知っているから、主の胸に抱かれてその温かさを知っているから、主を心から愛することができる。愛すれば、いかなる荷も軽く感じるのです。愛してないと羽毛一枚でさえも重く感じます。

キリスト教信仰の生命力は、主に抱かれて安息を味わった人たち、主がどのような方か知っている人たち、主を愛する人たち、そして、そのような主のためならば十字架を背負っても踊りをする人たちによって継承されているのです。これらの人たちは、主とともにいる時間を愛し、批判する代わりに愛をもって微笑みます。主の視線とこれらの人の視線は愛によって結ばれています。彼らの関心は神様を喜ばせることにあります。愛しているから主のことを考えるだけで喜びがあふれます。心が躍ります。

  心にあるこの安きを 奪うもの地になし 
   試みにて苦しむとも 我が安き動かじ
  我がものなる主を宿す その喜び言い難し
   主 宣(の)たまえり「我などて汝を捨てて去るべき」 (聖歌560番)

ハレルヤ!主が共におられます。私は主を知っています。私は主を愛しています。主はこの私の祈りを聞き、涙を見られます。そして私をいやし、なぐさめ、力ある御手で私を守り導いてくださいます。この世には常に悩みがあります、しかし、現実の苦しみと試練は主のみによって勝つことができます。主を知らない者、恵みを多く受けているのに主の前を通り過ぎる者ではなく、幼な子のように主の胸に抱かれ、主の温かさを感じ、主を愛し、主のためならば荷を負っても踊ることのできる、幸せな聖徒となれますようにと心から願っています。

以上