ある時、イエスがある家の中で群衆に向かって話しておられると、そこにイエスの母マリヤとイエスの兄弟たちがやって来ました。母と兄弟たちが家の外に立っていると聞いたイエスは意外な言葉を発せられたのですが、この場面の登場人物を分類すると主が願われる信仰者の姿を知ることができます。まずは、聖書箇所を読んでみましょう。

イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。 それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。 イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。(マタイによる福音書12:46-50)

1.その他大勢(イエスに関心が無い人
この箇所には、イエスが家の中で人々に話をしている様子が書いてありますが、この家に来なかった人たち、すなわち周辺に住んでいる大部分の人たちは、「イエスが来られた」という知らせを聞いても自分に生活に没頭していたのでしょうか、彼らはイエスがなさることにも話される御言葉にも全く関心が無かったと考えられます。

今の時代も同じです。大部分の人々はイエスに関心がありません。しかし、すべての出会いの中でイエス・キリストに出会う以上に大切な出会いは無いと私は断言します。イエスは私たちを祝福するために来られ、イエスの方から先に私たちに愛の御手をのばしてくださっています。私たちはその手をつかむべきです。そうすれば、いかなる悪魔の攻撃も断ち切ることができない強い綱で神様と私たちは結ばれます。すべての人に、イエスに大きな関心を持ってほしいと心から願います。

2.イエスの母と兄弟たち
イエスの兄弟とは、マリヤとヨセフの間に生まれた子たちです。母マリヤはイエスを産み、兄弟たちは幼少時からイエスとともに育ちました。彼らは誰よりもイエスに近い聖なる家族です。にもかかわらず、彼らは家の中に入らず外に立っていました。イエスに最も近い人たちであっても、玄関の外で躊躇することがあり得る。その原因は、自分は誰よりもイエス様に近いという自負心です。

今の時代においても、イエスに近いと思える人が玄関の外で立っている場合があります。牧会者、教会の役員、教会で奉仕する人、長い間教会生活してきた人、このような人たちであっても、イエスの家の中に入らない人がいるのは事実です。心の門を開いて、家の中に入るべきです。そして訪ねて来た理由をイエスに話すべきです。それは、あなたの心の悩みかもしれません。抱えている問題かもしれません。それら全てを包み隠さず申し上げるべきです。

そして、イエスに強くつながるべきです。イエスが出て来られて家の外で対話できたとしても、対話が終われば簡単に帰ってしまう。たまに用事がある時だけ来て、用事をすませたらさっさと帰ってしまい、イエスから遠く離れて暮らす。そのような姿勢を続ける限り真の祝福は得られないでしょう。

後日、母と兄弟たちはイエスの家の中に入りました。イエスと強く結ばれ、イエスから愛を注がれ、イエスが心配してくれる、イエスが触れて下さる、イエスが問題解決してくださる、そのような人になりました。

彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。 彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。(使徒行伝1:13-14)

3.弟子たち
イエスは弟子たちを天にいますわたしの父のみこころを行う者と言われました。天の父なる神様のみこころを行う第一歩は、イエスを信じることです。家の中には弟子以外の群衆が多くいました。彼らはイエスを信じない人たちでした。くれぐれも皆さんがイエスと同じ家にいたのに、イエスを信じないで滅びる者になることないよう心から願います。主にあって変えられた聖徒はイエスと共に天国に行き、そうでない群衆は底知れぬところに落ちて行くのです。せっかくイエスと同じ空間にいるのに、イエスと永遠に分かれることがないよう願います。私たちの人生は、御言葉によって訓練され、変えられて、永遠なる天国に行けるようになるために神が与えてくださった時間であることを覚えておくべきです。

また、天の父なる神様のみこころを行うとは、イエスの御言葉に従順することでもあります。みなさんは、御言葉のために葛藤したことがありますか。ある人を憎んでいるが主が愛しなさいと言われたのでその通りにしようとして涙を流して祈ったことがありますか。供え物をささげる前にうらんでいる兄弟と和解をしなさいと主が言われたのに、うらんだまま礼拝する自分の姿に悩んだことがありますか。本気で御言葉に従順しようとしない人は、御言葉による悩みも痛みも感じることはないでしょう。ここに、長く教会に通っても何も起こらない理由があります。御言葉通りに行わなければ何の変化もありません。ただイエスの周りをぐるぐる回るだけの人になります。毎日曜日に教会に来ます、御言葉を聞きます、しかし聞いた御言葉が人生に何の変化ももたらさない、ただ宗教生活をしているだけの人になることがないよう願います。

最後に
この日、弟子たちはイエスからわたしの兄弟、また姉妹、また母なのであると言われて、さぞ嬉しかったことでしょう。しかし、彼らは喜んでばかりはいられなかったのです。なぜなら、イエスの言葉には警告が含まれていたからです。それは、今はわたしと共にいて御言葉通りに行う努力をしているが、私を離れて私の御言葉に従順しなかったときは私の家族ではないという警告です。

果たして、弟子たちはそのとおりになりました。ゲツセマネの園でイエスが捕らえられた時、彼らはみな逃げ、あの人を知らないとイエスを否定し、離れて行きました。もし復活されたイエスが訪ねて来られて彼らをいたわり回復させることがなかったなら、彼らはイエスと何の関係も無い人たちになったでしょう。この教会のみなさんは今まで弟子として生きて来られたと思います。いつもイエスと共にいて、御言葉を学び、御言葉に従おうとする努力をしてこられました。そのような信仰生活をこれからも続けてください。

この礼拝を終えて各々の生活の現場に帰れば、様々な苦しみの中にいる人に出会うでしょう。それが家族であれ、隣人であれ、そのような人に出会ったなら、なぐさめ、いたわり、励ましてください。それが「あなたの隣り人を自分自身のように愛しなさい 」(マタイによる福音書22:39)と言われたイエスの御言葉の実践であり、そのように生きるとき、天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのであるというイエスの声のぬくもりを感じながら、主が導くすばらしい人生の旅を、主の愛と力に支えられて力強く続けていくことができると思います。イエス様の聖なる家族になるために生きていかれますように、そしていつか永遠の御国で、再び愛する人たちにお会いして神の家族となれますように、主の御名で祝福します。

以上