今から2000年前、イエス・キリストが十字架につけられ、死んで墓に葬られ、三日目に復活して弟子たちや多くの人々の前に現れ、そして昇天されました。その後、イエスを信じた人々は集まって教会を形作るようになりました。初代教会の誕生です。その様子が使徒行伝に描かれています。「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。」(使徒行伝2:44-47)

 「その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった」(同2:41)とあるように、多くの群衆とイエスの弟子たちは集まり、共に祈り、お互いに「信徒の交わり」(同2:42)を持ちました。おそらく、彼らは次のような会話を日々分かち合っていたのではないかと想像します。

<群衆>
「イエス様のうわさを初めて聞いたときは、それほど関心はなかったけれど、ある日、友人と行ってみると大勢の人たちがそこに集まっていました。イエス様の声は遠くにいる私にもはっきり聞こえ、その言葉は心に響きました。イエス様は、律法学者たちのような抑圧的な話ではなく、私たちが牧者を失った羊のようであると言ってあわれんでくださった。そして父なる神様は私たちを愛しておられるので、その方を信じなさいと語ってくださいました。私たちの目の前で病人をいやし、いやされた人が喜んで飛び跳ねていました。また、一人の少年が持っていた五つのパンと二匹の魚で5000人を満腹にさせられました。私たちの先祖たちは天からのマナを食べ、私たちはイエス様のパンをいただいたのです。」 
 このように語る人々の目には涙があふれ、心から愛していたイエスへの思いが心につのっていたことでしょう。

<弟子たち>
「五つのパンと二匹の魚を祝福して人々に分け与えた時、私たちは興奮を覚えました。まるで自分が分け与えているような気持ちで、パンと魚を群衆に配っていたのです。しかし、それは高慢でした。そのような私たちをイエスは船に乗り込ませて向こう岸に行くようにと言われました。船が沖に出ると突然の嵐にあい、私たちの仲間の幾人かは漁師であったのに、なすすべもなく船は嵐にもまれ、死の恐怖を感じました。私たちはイエスなしには何もできなかった。自分がいかに弱い存在であるかを気づかされ謙遜を学びました。これはイエス様の愛の訓練だったと思います。それにしてもあの時、イエス様が海の上を歩いてこられたのには驚いた。私たちは恐ろしくなって、幽霊だと叫んでいました。イエス様は私たちに近づいてきて『しっかりするのだ、私である。恐れることはない』と声をかけてくださり、そして船に乗り込まれました。その瞬間、風はやみ海はしずかになった。私たちはイエス様が真の神の御子であることを知りました。」
 弟子たちの話に、群衆はアーメン!と言ってたいそう恵まれたことでしょう。そして彼らは、もっと祈りに努めようと心に決めたことでしょう。

<ペテロ>
「イエス様が海の上を歩いてこられた時、私だけが体験した話をします。『しっかりするのだ、私である。恐れることはない』と言われたイエス様の声を聞いて、私は胸がおどりました。そして、おさえられない衝動がこみ上げてきました。私もイエス様のように海の上を歩きたい!歩いてイエス様のみもとに行ってみたい! 気がついたら私はこう叫んでいました。『主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください』イエス様は私に『おいでなさい』と言われましたので、私は船から降りて水の上を歩いてイエスの方に行きました。このことは一生忘れられません。本当に、水の上を歩いたのです。ところが次の瞬間、強風を見て恐ろしくなって、私は水の中に沈みかけました。私は『主よ、助けてください』と叫びました。主はすぐに手を伸ばして私をつかんでくださり、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われました。その日私は学びました、イエス様だけを見つめれば、水の上さえも歩くことができるのだと。イエス様がおられない今の私たちの教会は、水の上にいるような危険な状態にあります。敵は多い。だからイエス様だけを見つめましょう。そうすればどんな嵐にも打ち勝てます。もっと神に祈り、その恵みを受けるべきです。」
 ペテロの話を聞いていたみんなはイエスのことで心が夢中になり、もっと深い恵みを求めたことでしょう。

 このように、群衆の話、弟子たちの話、ペテロの話は、その内容が異なります。群衆は五つのパンと二匹の魚の奇跡の話はできましたが、海の上の話はできません。弟子以外はそこにいなかったからです。弟子たちは海の上でイエスが嵐を鎮めた話はできましたが、海の上で歩いた話はすることはできません。ペテロだけが経験したことだからです。このことから、信仰には挑戦が必要であることに気づかされます。

 ペテロが海の上を歩いたことは、彼が志願して飛び降りた故に経験した特別な恵みです。時には私たちも海に飛び降りるような挑戦をしなければなりません。何も行動しなければ、神様の深い恵みを経験できないのです。深い恵みは自ら志願して挑戦することでいただけるのです。ですから病の中にある人は、「病人に手をおけば、いやされる」(マルコによる福音書16:18)との聖書の約束を私が体験することができるように導いてくださいと、自ら志願して祈らなければなりません。モーセが自ら杖を差し出した時、紅海は分けられました。イスラエルの民が神の命令に従って自らエリコの城壁のまわりを周った時、城壁はくずれました。神様は、自ら信仰の挑戦をする者に恵みを与えて下さるのです。特別な恵みが必要な時が、人生にやってきます。癒しのために祈ってください。子どもの祝福のために祈ってください。主はわが牧者であって、日々、恵みに恵みを増し加えて下さいます。

以上