会社を引退した方々に共通する問題は、時間の過ごし方です。どこで、誰と、何をすればよいのか。それを探すために時間を過ごす、そんな人たちが少なくありません。どうすれば、本当の生きがいを感じて余生を過ごせるでしょうか。生きるということは、ただ時間を過ごすこととは異なります。私たちキリスト者は、神の前で価値ある人生を生き、やがて神の前に立つ時に見せられる実を結ぶために生きなければなりません。そのためには、何のために、どのように生きるべきかという「聖なる悩み」を持たなければなりません。そして、時の流れに巻き込まれて右往左往することなく、また欲望にとらわれて悪賢い行動をすることもなく、ただ神を見上げて変わらない信仰で決断し行動する勇気が必要です。

 それでは、具体的にどうすればそのような生き方ができるでしょうか。今日の聖書箇所はそのヒントを与えてくれます。

 ユダ王国の末期に、エベデメレクという人物がいました。彼はユダヤ人ではなくエチオピヤの出身でしたが、ユダ王国のゼデキヤ王の側近としてつかえていました。ゼデキヤ王は、ユダ王国第20代国王(在位、BC597~587年)で、第1回バビロン捕囚直後に、バビロニア王ネブカドネザルによって王位に就けられた傀儡でした。選民意識で異邦人を差別するユダヤ人たちに囲まれ、彼は自分が置かれている苦しい環境に耐え忍びました。いや、それどころか他のユダヤ人の誰にもできなかった大きな働きをなしとげたことを聖書は記録しています。

 それは、預言者エレミヤの救出でした。エレミヤは、他の多くの預言者たちが平和と安心のメッセージを語っていた中で、彼だけがユダ王国の滅亡を宣言したのです。バビロンは悪しき偶像を崇拝するユダを打つために主が備えた鞭であり、素直に受け入れて降伏しなさい、そうすれば70年後に再び国は回復すると。しかし、王の家臣たちは、エジプトに頼ってバビロンに立ち向かうことを願いました。そして、自分たちと考えが相違するエレミヤを憎むようになり、エレミヤを「殺してください」と王に願い出ます。(エレミヤ書38:4) 王はそれを許可し、エレミヤは捕らわれて穴の中に投げ入れられ、泥の中に沈みました。(エレミヤ書38:6

 このまま放置すればエレミヤは死にます。その時、「聖なる悩み」を持っていたエベデメレクは、エレミヤを助けなければならないと考えました。そのようなことをすれば家臣たちに命を奪われるでしょう。周囲に逆らわずに同調するのが身を守るためには得策でした。しかし、彼は勇気を出して、行動に移します。王に対してこう進言したのです。「王なるわが君よ、この人々が預言者エレミヤにしたことはみな良いことではありません。彼を穴に投げ入れました。町に食物がなくなりましたから、彼はそこで餓死するでしょう」。(エレミヤ38:9)

 その結果、エレミヤは救出されました。ここで、みなさんに質問があります。なぜエベデメレクは自分の得にならない危険な行動をとったのでしょうか?その答えはひとつです。彼が神様を信じたからです。エレミヤが神様の真の預言者であり、エレミヤの言葉は神の御言葉であると信じたからです。エベデメレクの行動は、信仰から出た行動でした。彼は信仰に忠実であり、「信仰と生活は別」という生き方はせず、自分の有利不利で行動しませんでした。

 そんなエベデメレクの行動に対して、神は大きな保証を約束されました。ユダがバビロンに滅ぼされるとき、エベデメレクを必ず救い出すと言われたのです。「主は言われる、その日わたしはあなたを救う。あなたは自分の恐れている人々の手に渡されることはない。わたしが必ずあなたを救い、つるぎに倒れることのないようにするからである。」(エレミヤ書39:17-18)

 エベデメレクは信仰と愛が神様から注がれたゆえにエレミヤを助けました。そのような信仰と愛があなたの心にも注がれるとき、職場であなたの助けを必要とする人をいたわることができるでしょう、あなたの周囲の人々に温かい祈りの心をもってあなたに与えられた職務を、聖なる使命を、あなたの人生で果たすことができるでしょう。神はそのような信仰によって生きる人の人生を保証してくださいます。

 私の弟が言いました。「母の祈りがあったから今の自分がある。母が亡くなって祈りがなくなってから、思いもよらないしんどいことがたくさん自分の身に起きた」と。主は言われます。「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩編50:15) 主は信仰によってとった行動のすべてに責任を持ってくださいます。

 エベデメレクは人種が異なり、皮膚の色も違いました。しかし、本当に相違していたのは彼の心であります。彼の心は神様の御心で満たされていました。信仰から出た勇気で満たされていました。今の時代にキリスト者が真に追及すべきはこのような相違です。その出発点は神の御言葉であり、神の愛であります。神の愛を信じ、神の御言葉通りに行動すれば、利己的な欲望を求める人々と全く相違する人生のコースを進むようになるでしょう。

 ある牧師が、ウクライナで長い間宣教活動をしましたがロシアとの戦争が起きて帰国しました。しかし、戦禍の中で苦しんでいるウクライナの女性や子どもたちの世話をすることが人生において最高の最後の願いであると、再びウクライナへ行きました。現在70歳。安定した生活、愛する家族を残して、砲弾の飛び交う土地で、その人は喜んで残りの人生を捧げています。

 最近、多くのキリスト者はこの世と同じ色をして生きていて、区別がつかない時がたくさんあります。私たちはキリスト者としての真の姿で生きなければなりません。世の誉れだけを追求することをせず、主を慕い求めなければなりません。そうすれば、私たちはしだいに世とは相違し、主に似ていきます。みなさんに、信仰で決断し行動する勇気が与えられますよう願います。

 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。(マタイによる福音書25:31-40)