キリスト教の教えの中で理解するのがもっとも難しいことは、復活ではないでしょうか。イエスの近くにいた弟子たちでさえ、イエスが語られたご自身の死と復活の予告を、まったく理解することができませんでした。

「人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、 また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。 弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった。(ルカによる福音書18:32-34

イエスの時代、ユダヤ人の中にサドカイ人と呼ばれる一派がいました。彼らは、ユダヤ教の指導的立場にあり、旧約聖書のモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)だけを認め、復活や死後の世界を否定していました。ある時、サドカイ人がイエスに質問を投げかけました。

復活ということはないと言い張っていたサドカイ人のある者たちが、イエスに近寄ってきて質問した、 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もしある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだなら、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。 ところで、ここに七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、 そして次男、三男と、次々に、その女をめとり、 七人とも同様に、子をもうけずに死にました。 のちに、その女も死にました。 さて、復活の時には、この女は七人のうち、だれの妻になるのですか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。(ルカによる福音書20:27-33)

この質問は、寡婦となった女性の経済的地位・社会的地位を守るために設けられた旧約の規定を根拠にしつつ、実際にはあり得ない極端な状況を想定したものですが、復活を信じる律法学者たちが答えられなかった難問でした。サドカイ人たちはこれをイエスにぶつけてきたのですが、イエスは見事な回答で彼らを論破されました。

イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、 かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。 彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。 死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。 律法学者のうちのある人々が答えて言った、「先生、仰せのとおりです」。 彼らはそれ以上何もあえて問いかけようとしなかった。(同20:34-40)

イエスは、神がご自身を「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3:6)と呼ばれ、神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのであるから、アブラハム、イサク、ヤコブは肉体的には死んだけれども滅び失せたのではなく、まだ生きていて、将来、復活があることを、サドカイ人たちも認めている旧約聖書の「柴の篇」すなわち「出エジプト記」を引用して示されたのです。

死んだ人が復活するのは、おかしいことだと思われるかもしれません。しかし、神様は私たちよりも少し優れているという程度の方ではなく、万物の創造主であり宇宙を創造し星々を天空にめぐらせておられる方、肉眼では見えない世界を創られた方。自然界は神が創造された生命のプログラムによって花が咲き、緑が茂ります。これらすべてが驚くべきことであり、人間には不可能なことであり不思議なことですが、神にとっては不可能でも不思議でもありません。復活は、人間的にはおかしなことですが、神様には死んだままでいる方がおかしなことなのです。

イエスは弟子たちに予告したとおりに、十字架の上で死なれ、墓に葬られた後、3日目に死の力を打ち破って復活されました。復活の目撃者であるイエスの弟子ペテロが、力強くこう語っています。

イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。 このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。(使徒行伝2:22-24、32)

私たちはいつか地上生涯を終えて肉体の死をむかえますが、イエス・キリストが復活されたように復活します。キリストの復活は私たちの復活の予表なのです。死後の復活こそイエスを信じるキリスト教信仰の核心です。ここに私たちの希望があるのです。

しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。(コリント人への第1の手紙15:20-22)

80歳の人は、それまでの人生で2万9200回ほど、夜に寝て朝に起きることを繰り返したことになります。短い人生なのに、なぜ神は人を寝たり起きたりするように創られたのでしょうか。それは「寝たり起きたりすることを通して、死と復活を練習するのである」という素晴らしい答えを聞いたことがあります。確かに、聖書には「眠り」を「死」の同義語として用いている箇所がいくつもあります。眠るは起きることを前提にしています。私たちはいつか眠るように肉体の死をむかえ、そして朝目覚めるように栄光の体で復活することを私は信じます。

人は死ねばそれで終わるのではありません。イエス様を信じる人だけでなく全ての人に復活は起きます。そして復活には、永遠の命を受けるための復活と、さばきを受けるための復活があると聖書は語っています。

このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。(ヨハネによる福音書5:28-29)

さばきの復活は永遠なる刑罰へ落ちていく復活です。漠然と復活を信じるだけでは永遠の命は受けられません。私たちに必要なことは悔い改めと罪のゆるしです。イエスが私の罪のために十字架にかかってくださり、死んで墓に葬られ、三日目に復活されたことを信じる者は、その信仰によって罪をゆるされて永遠の命が保証され、さばきに至ることはありません。

よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである(ヨハネによる福音書5:24)

イエス様が復活されたように、将来、私たちは永遠の命の復活へと進み行きます。これは、聖徒たちに確定されたことです。たとえ罪多き者、過ちの多い者であっても、この事実は動かされることが無い。確定されたこの希望は、不確実な世界を生きる私たちにとって心の支柱となるでしょう。

イエス・キリストは死と悪魔に対して勝利されました。私たちもイエス様と同じように勝利することができます。だから、倒れても再び立ち上がりましょう。苦しくても再び出発しましょう。難しくても始めましょう。つらくて耐えられない気持ちであっても勇気を出しましょう。どんな状況にあっても落胆することなく、永遠の御国に向かって人生を歩む皆さんとなるように、イエス様の御名で祝福しお祈りいたします。

以上