暑い日が続きますが、今日はみなさんに暑さに勝つ秘訣をお教えしたいと思います。あと数か月たてば冬がやってきます。そして、寒さに震えながら「暑い夏がよかった」と思うようになります。ですから、寒い冬の目で今を見れば、この暑さも苦になりません。
このように、明日を想像しながら生きれば、今をどのように生きるべきか知恵が生まれます。イエスが「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイによる福音書6:34)と言われましたが、これは明日のために何も備える必要はない、ということではなく、私たち聖徒は将来への備えに怠慢になるべきではありません。
本日の聖書箇所は、これについてよい教訓を与えています。ある日、神は、預言者エレミヤに幻を示されました。
バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った後のこと、主は私にこのように示された。見よ、主の神殿の前に、二かごのいちじくが置かれていた。
一つのかごにあるのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごにあるのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものであった。
そのとき、主が私に、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いほうは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」(エレミヤ書24:1-3)
世界史の教科書にもあるとおり、BC7世紀の後半にメソポタミアを征服した新バビロニア王国のネブカドネツァル2世が、BC597年にエルサレムを首都とするユダ王国を制圧し、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った(第一次バビロン捕囚)後、主はエレミヤに、一つのかごに非常に良いいちじくがあり、もう一つのかごに非常に悪いいちじくが置かれている幻を示されました。
ふたつのかごのイチジクは何を示しているのでしょうか? この時代、ユダの人々は、バビロンに連れていかれた人たちと、エルサレムに残った人たちに分かれていました。神様は、バビロンの捕囚となった民たちを良いイチジク、エルサレムに残った人々を悪いイチジクにたとえられたのです。続けて主は次のように語れました。
「イスラエルの神、主はこう言う。わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。」(エレミヤ書24:5-7)
「しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように──まことに主は言われる──わたしはユダの王ゼデキヤと、その高官たち、エルサレムの残りの者と、この地に残されている者、およびエジプトの地に住んでいる者を、このようにする。わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもと、悪しきものとする。また、わたしが追い散らす、すべての場所で、そしりと嘲りの的、物笑いの種、ののしりの的とする。わたしは彼らのうちに、剣と飢饉と疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。」(エレミヤ書24:8-10)
今は問題をかかえて闇の中に閉じ込められているようであっても、神は神に立ち返る人を心に留めてくださり、真実の愛を必ず示してくださるという約束がこの御言葉にあらわされています。今、苦しんでいる方がこの中にもおられます。悩みの中で途方に暮れ、暗いトンネルの中で前が見えず、もがいている方がおられます。しかし、主はあなたを愛しています。主の声に耳を傾けて下さい。そして今日、悔い改めて主に出会ってください。主はあなたを支えてくださいます。主はあなたを恵み、あなたはきっと主を讃美するでしょう。
その後、BC586年にはユダ王国の首都エルサレムが征服され、民たちは囚われの身となってバビロンに連行されますが、50年の捕囚生活の後、BC538年に解放されて帰還することになります。主はバビロンに連れていかれた人たちを守り、その苦しい境遇から救い出されたのです。帰還した人々はエルサレムに神殿を再建し、エズラを中心として信仰復興(リバイバル)が起きました。
このような事実を前にすれば、今日だけを見て明日を判断するべきではないということがよく分かります。今日は良いように見えても明日滅び、今日は悲惨で光が見えなくても、明日は栄光の座、勝利の座に移される人もいるのです。決して現在だけを見て判断してはなりません。明日になってみれば、状況がまったく異なることがあるのです。だから、明日の目で今日を見るべきなのです。
主人からタラントを受け取って熱心に働くのは今日です。今日、忠実であれば、明日、主人が返ってきたときに『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。(マタイによる福音書25;23)と祝福を受けることができます。人は必ずまいたものを刈り取ります。今日良いものをまけば、明日必ず良いものがかえってきます。今日愛をまけば、明日必ず愛がかえってきます。
みなさん、明日の目で今日をみてください。信仰を守るために様々な苦難、時には不利益を受け、また信仰をもって施したはずなのに何故か惜しいような気持になることがあるかもしれない。しかし、祈りながら神様が喜ばれる道を耐え忍んで行かれますよう願います。明日必ず主が栄光の冠をもって、あなたに近づいてくるでしょう。「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」(コリント人への第2の手紙4:17)
明日を想像して、今日隣人を助け愛するべきです。家族を愛するべきです。特に、年老いた親を愛し敬わなければなりません。自分が親にしたように自分にかえってきます。私は自分の人生を通して今も後悔しています。
80歳を超えて夫をなくしたご婦人がおられ、彼女は障がいがある息子と2人で暮らしておられます。ある日、「雨が降ると家の前に水があふれるので困っています」とおっしゃるので、「行って直してあげますよ」と軽い気持ちで引き受けました。ところが、行ってみると地面にブロックが埋まっていて掘り出さなければなりません。これがとても固かった。「簡単ですよ、すぐ終わります」と言ったものの、3時間ほど大汗をかきながらハンマーでたたいて、自分でも何でここまでするのかなと思ったりもしましたが、やっとの思いで掘り出しました。そして、トイレを借りました。ところが水が流れない。後ろから息子さんの声がして「トイレこわれてて水がでないんですよ。」 困ったなあ。。と思いながらトイレのタンクを開けて分解して修理しました。
この日は、肉体的にはきつかったけれど、心はものすごく平安で喜びがあふれました。神様がそのような心を与えてくださったと思います。しんどかったけど、本当にうれしかったのです。普段、人との会話が少ない彼女もうれしいから私のそばに来て、作業をしている私の横で滝のようにしゃべりました。土を掘っただけで喜んで微笑んでいる彼女の姿を見て、感謝しながら家に帰りました。
今、私たちがすべきことは明日の目で今日を見ることです。そして今日、親、特に年老いた親や、隣人に対して少しでも愛を示すことです。明日、必ず神様は栄光の冠をかぶせてくださいます。主の御言葉を信じて、与えられた恵みに感謝して、今できることを行うことができる力を与えて下さいと祈る者になりましょう。時には困難が来るでしょう。しかし、苦難は耐え忍ばなければなりません。時には節制をしなければなりません。明日のためです。今日、流す涙を、明日、神様は必ず拭いて下さり、栄光の冠をかぶせてくださると確信します。
以上