「愛をもって進み行きましょう」2026.1.11
コリント人への第1の手紙13:13
今日の聖書箇所は、私たちにとって最も大切な「信仰・希望・愛」について語っていますが、この三つは同列ではなく、このうちで最も大いなるものは、愛であると言っています。なぜでしょうか。
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。(コリント人への第1の手紙13:13)
1.信仰について
信仰とは、真理を確信することです。キリスト教信仰における真理とは、創造主なる神の存在、イエス・キリストの十字架と復活、永遠の命と天国などです。これらは人間の理性では信じることはできない領域です。いくら五感を総動員しても、神は手で触ることも目で見ることもできません。
ところが、キリスト者はこれらを信じています。見たことも触れたこともないのに、どうして神様がおられることが分かるのでしょうか。それは人間の努力や修行の結果ではなく、聖霊の働きによるものです。
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。(コリント人への第一の手紙12:3)
聖霊の助けによって、聖書にしるされた真理を確信することができるのです。これは驚くべき上からの恵みです。私のようなものが神を信じることができる、イエスが私の救い主であると確信できる。これは神からの一方的な恵みです。
ところで信仰には、強い、弱いがあります。信仰の弱い人は、小さなことにも心が揺れ動きます。信仰が強い人は、いかに困難な状況でも、しっかりと立って神様を見上げることができます。そのような強い信仰を神様が与えてくださって、この世の荒波の中でも平安に生きることができるように祈り求めましょう。
2.希望について
信仰を持つ人は、希望を持てるようになります。無から有を呼び出す神、不可能を可能にする神を信じる信仰が、希望を生むからです。
アブラハムが、親族を離れて神が示された未知の土地に旅立つことができたのは、彼の心に希望があったからです。その希望は、神は必ず自分に祝福を与えてくださるという信仰によって生み出された希望です。ですから、私には希望がないと思っている方は、少し心を静かにしてください。そして希望を祈り求める前に、信仰を与えてください、明日に対する希望を持つことができるように、信仰を与えてくださいと祈るべきです。
繰り返しますが、信仰がなければ希望は生まれません。先日、天に召された教会員のNさんは、私にこう言われました。「先生、私は死ぬことは怖くありません。主がわたしを御国へと招いてくださるからです。ただ子どもたちと孫たちを見守りたい。そのような思いだけです」と。彼女が、死を目の前にしても、死ぬことを恐れなかったのは、慰め主である聖霊様が心の深いところに希望を与えられたからです。
3.愛について
希望は信仰から生まれると申し上げました。しかし、愛については、希望から生まれるというような順序はありません。愛は、信仰の中にあるべきもの、また希望の中にあるべきものです。愛のない信仰、愛のない希望は、問題を引き起こす場合が多くあります。愛がなければ、信仰も希望も、むなしいものとなるのです。
もし愛がなければ、わたしは無に等しい。 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。(コリント人への第1の手紙13:2-3)
トルストイの短編小説「人にはどれほどの土地がいるか」の主人公パホームは、真面目に働いていましたが、「もっと土地があれば、悪魔だって怖くないのに」と口にしたことから、悪魔が彼の心を揺さぶってきます。パホームは、いくら土地を増やしても満足できず、さらに広い土地を求めて別の村へ移ります。ある日、遠方のバシキール人の土地が驚くほど安く手に入る噂を聞き、そこへ向かいました。着くと長老がこう提案します。「1,000ルーブル払えば、一日のうちに歩いて回っただけの土地をすべてお前のものにしよう。ただし、日が沈むまでにスタート地点に戻ってこなければ、金は没収だ。」翌朝、パホームは日の出とともに歩き始めます。少しでも多くの土地を手に入れようと、どんどん遠くまで足を伸ばします。肥沃な土地を見るたびに欲が出て、引き返すタイミングが遅れていきます。日が傾き始め、必死でスタート地点へ走り出します。沈みゆく太陽を見ながら死に物狂いで走り、日没直前、長老の待つ地点にたどり着きました。しかし、ゴールした瞬間、そのまま息絶えてしまいました。彼に必要だった土地は、 埋葬されるためのわずかな土地だけだったという皮肉で物語は終わります。
みなさん、愛のない希望は、歪曲された情熱に変わる危険があることを覚えておいてください。パホームには、愛する妻と子どもがいましたが、家族への愛がいつのまにか消え、彼の希望は歪曲された情熱に変化し、家族の心に痛みを与える結果となりました。
それでは、愛に満ちた信仰、愛に満ちた希望とは、どのような姿でしょうか。愛のある信仰は、愛のある希望を生みます。そして、愛のある希望は、周りの人々の弱さを担うようになり、彼らを立ち上がらせます。
わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって(ローマ人への手紙15:1)
復活されたイエスには、愛に満ちた希望が心の中にありました。神の救いが地の果てまで伝えられる、という希望です。一方、イエスの弟子たちは希望を失っていました。復活されたイエスは、そんな弟子たちを訪ねて来られ、火をおこして魚を焼き、食事の準備して彼らを迎えました。
彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。(ヨハネによる福音書21:15-17)
イエスは、ご自分を裏切った弟子たちを責めることは一切せず、「わたしを愛するか」と、ただ愛だけをたずねられました。三度イエスを否認したペテロに「わたしを愛するか」と三度聴かれたとき、おそらくペテロの目には涙があふれていたでしょう。そのようなやり取りをしながら、「私の羊を養いなさい」と言って、彼らを立ち上がらせました。愛に満ちている信仰と希望は、人を立ち上がらせるのです。
インドのキリスト教宣教師サンダー・シングの話をしたいと思います。彼は、シーク教からキリスト教に改宗し、インド全土、チベット、ネパール、ヒマラヤを巡り、時に迫害され、時に奇跡的に救われた体験を持つ人物です。ある冬の寒い日、海抜4000メートルを超えるヒマラヤ山中を友人と歩いていたとき、崖の下に転落して倒れている男を発見します。友人は、そのまま置いて行くべきだ、下手をすると自分たちも凍死してしまうと主張し、一人で先に進んでしまいました。シングは男を見捨てることができず、彼を背負い歩き出しました。そして、必死に歩くことでシングの体が温まり、背負った男も体温が上がって気をとりもどし、二人はともに歩きました。しばらく進むと、凍って死んでいる人が倒れていました。それは、先に一人で行った友人でした。
今年の当教会の標語は「道に進み行きなさい」です。前に向かって進むとき、大きな目標を持つことは良いことです。子どもに対して大きな夢を持つことも良いことです。しかし、愛をもって進み行くことが必要です。心の中に愛があって、家族や周りの人を愛する思いがあること。愛をもって信仰を満たし、愛をもって希望を満たす一年となることを、心から願います。
以上