「安らかに去らせてくださるまで」2025.11.30
ルカによる福音書2:21-32
人生において、待つことは簡単であるとも言えるし、難しいとも言えます。お母さんがいつ帰ってくるのか待った幼少期に始まり人生は待つことの連続です。私たちは神様からいつ呼ばれるかと最期の日を待ちながら、日々何かを待つ人生を生きていきます。そういう意味で、待つことは人生の本質であると言えるでしょう。今日の聖書箇所には、切実な心であることを待っていたシメオンという人物が出てきます。
八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。それから、モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。 それは主の律法に「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者と、となえられねばならない」と書いてあるとおり、幼な子を主にささげるためであり、 また同じ主の律法に、「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定めてあるのに従って、犠牲をささげるためであった。 その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。(ルカによる福音書2:21-26)
シメオンが、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた理由は、二つありました。
第一に、彼が現実に絶望していたためです。この当時のイスラエルはローマ帝国に支配され、加えて預言者マラキが神の言葉を語った以後、神の長い沈黙の時が数百年も続いていたのです。そのような困難で苦しい時代に、民たちの中にはギリシャ化やローマ化を求める者もあらわれ(それはイスラエルの神を離れることを意味しました)、シメオンは希望を見失っていたのです。彼は遠い昔から旧約聖書に預言された救い主メシヤの到来を待ち望んでいました。メシヤが来られて神の方法で苦しい自分たちを慰め、救い出してくださることを渇望していたのです。
第二に、この人は正しい信仰深い人とあるように、シメオンの信仰と人格的品性のゆえに、当時の腐敗し堕落した世の中は彼のような人間には生きづらかったのです。ローマ皇帝は、見るもの遊ぶもの食べるものを提供するために力をつくし、競技場では剣士たちの血まみれの戦いや、狂乱の踊りが見られました。人生を楽しませるのが有能な皇帝の条件と思われていたからです。それを喜ぶ民は大勢いましたが、シメオンにとって大きな罪であり悪でしかありませんでした。
このような理由で、彼は神の慰めを待つしかありませんでした。彼は、日々神殿で祈りメシヤの到来を切実に待っていたのです。
ここで、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいたと翻訳されたギリシャ語の原文聖書で用いられている「待つ」を意味する単語は、神学的にキリスト教信仰を特徴づけるとても重要な語です。この言葉は、多くの箇所で用いられています。
・神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。(ユダの手紙1:21)
・また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。(使徒行伝24:15)
・祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。(テトスの手紙2:13)
・アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。(マルコによる福音書15:43)
このように、キリスト者にとって最も大切な「あわれみ」「復活」「栄光」「神の国」を待つという文脈で、この言葉が用いられています。この四つが存在しなければ、それは福音たりえません。聖書において「待つ」という単語の対象は、キリスト者の希望であり命そのものであります。逆に言うと、これらを待っている人がキリスト者なのであります。
今日から教会歴における「待降節」が始まります。待降節は「アドベント」といいますが、これは近づく、接近するという意味のアドベントゥスというラテン語に由来しています。私たちの中に待つ心があるようにと願います。神は「待つ」という課題を与えるお方です。それゆえ聖書は「約束と成就の本」ともいえます。神は約束され、約束通りに成就されます。
問題は成就するまでに時間が必要なことです。人は「なぜ早く答えが出ないのか」と思いながら待ちます。それは、待つというよりも疑っていると言った方がよいのかもしれません。聖徒は待つことができなければなりません。アブラハムはイサクが生まれるまで長い間待ちました。イスラエルの民は数百年メシヤを待ちました。キリスト者にとって「待つ」は「信仰」と同義語です。信じない人は待ちません。信じる者は、神は必ず答えてくださると信じるので待つことができます。ですから、信仰を表現する一番の方法は待つことです。皆さんが、待つことを通して皆さんの信仰を表現できますようにと切に願います。
待降節を迎え、わたしは皆さんを聖なる「待つ」に招待したいのであります。生活の現場で神のなぐさめを待たれますように、神のいやしを待たれますように、と願います。もどかしく苦しい現実の中で、ともに待ち続けましょう。待つことができれば必ず勝利します。アレクサンドル・デュマの言葉です。「すべての人間の知恵は二つの言葉に要約される――待つことと希望すること。」
ドイツの神学者ユルゲン・モルトマンは、信徒の人生は「予期的人生」であると定義しました。予期的人生とは「まだ完全に起こってはいないが必ず成し遂げられることを確信し、その完成の瞬間を信じて待ちながら生きること」です。イエスが語ったタラントのたとえ話で登場する忠実なしもべは、主人から預かったタラントを、主人がいつ帰るかはわからないけれども必ず帰ってくるので、明日にでも帰ってくるであろうと思いながら、熱心にタラントを運用して財産を増やしました。このような態度が予期的人生です。待つ人は、約束が成就することを信じて生きるので常に真剣に決定し行動します。これがキリスト者のあるべき姿です。漠然と何も考えずに待つべきではありません。冬に春を待つのがむなしいことでないのは、春は必ず来ると信じているからです。成就の瞬間を思い浮かべながら、今日なすべきことを選択し、信じ、祈りながら生きるべきです。人生には失敗はありません。待つことが勝利につながるからです。
しかしながら、私たちは待つことが得意ではありません。何故はやく良くならないのか? なぜ? なぜ?と思うことがたびたびあります。そのような時、サタンはすばやくそばに近づいてきて私たちを試みます。もうちょっと人生を楽しんだらどうか、これだけ待ったからもう十分ではないか、やめても大丈夫だと、ささやきます。待つことは激しい霊的な闘いであり、心の闘いなのです。
そんな時に私たちを激励し、助けてくださる方がおられます。それは聖霊様です。聖霊は、私たちが最後まで待つことができるように力と勇気を与えてくださいます。待つことは聖霊のうちにあってのみ可能なのであります。聖霊は、シメオンとともにおられました。本日の聖書箇所をもう一度読んでみてください。聖霊という言葉が繰り返し出てきて、シメオンに生きている間にメシヤに会えると示され、聖霊に導かれて宮に入ったシメオンがお生まれになったイエスに出会えたことが記されています。
シメオンの待っていたことは、聖霊のみわざによって美しく成就し、彼は喜びのあまり神を賛美しました。
この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。(ルカによる福音書2:27-32)
シメオンは、待つという細いけれども粘り強い信仰の縄で、神の高い世界と連結されて生きていました。その縄を通じて神の愛と恵みがシメオンにのぞみました。今の私たちは将来かならず再臨されるキリストを待つべきです。また、人生のすべての瞬間において、キリストを待つべきです。聖霊のうちにあって待ち続け、みことばの約束が成就されて、神のなぐさめと救いと喜びと平安を、皆さん一人ひとりが豊かに享受されますように。私たちもいつかシメオンのように、あなたはみ言葉のとおりにこの僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいますと言って、主を賛美しながらこの世を離れていくことができますように。2025年の待降節を迎えて、皆さんとお分かちしたい言葉は「待つ」という言葉です。
以上