今日の聖書箇所は、先週お話したハガルの追放の続きです。アブラハムの家を追い出された母ハガルと息子イシュマエル。追放することをお認めになられた神は、はたして母子をどのように取り扱われたのでしょうか。
翌朝早く、アブラハムは、パンと、水の皮袋を取ってハガルに与え、彼女の肩に担がせ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女は行って、ベエル・シェバの荒野をさまよった。(創世記21:14)
アブラハムが、ハガルとイシュマエルに与えたのは、パンと皮袋に入れた水、つまり次のオアシスまでの食料と飲み水だけでした。荒野は死と隣り合わせの世界です。ところが二人はベエル・シェバの荒野をさまよった、つまり荒野で道に迷ってしまったのです。水が尽きたハガルは死を覚悟します。もはや彼女は神に向かって泣き叫ぶしかありませんでした。
皮袋の水が尽きると、彼女はその子を一本の灌木の下に放り出し、自分は、弓で届くぐらい離れた向こうに行って座った。「あの子が死ぬのを見たくない」と思ったからである。彼女は向こうに座り、声をあげて泣いた。(創世記21:15-16)
この箇所と次の箇所に、親の果たすべき務めについての教訓を読み取れます。家庭に苦しみがあるとき、まず先に親が泣くべきです。神様に向かって泣き叫ぶ、祈りとはそういうものです。親は家庭のため、子供のために祈らなければなりません。それが親の務めであり、親の責任です。子どもが人生に絶望し、傷つき、打ちのめされて、立ち上がれないほどの苦しみを味わうとき、まず親が祈るべきなのです。
神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ。立って、あの少年を起こし、あなたの腕でしっかり抱きなさい。わたしは、あの子を大いなる国民とする。」神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで、行って皮袋を水で満たし、少年に飲ませた。(創世記21:17-19)
この時、イシマエルは17歳から20歳くらいの青年ですが、神は母に、息子をあなたの腕でしっかり抱きなさいと言われました。肉体的な力はイシマエルが強くても、人生のどん底から子を引きあげるのは親なのです。打ちのめされて絶望の中でさまよう子は、自力ではなかなか立ち上がれません。立ち上がらせる務めは親にあります。もちろん親だって疲れる時もあれば落胆するときもあります。歳もとります。しかし、親は決定的な瞬間においては、信仰と知恵と勇気を子に与え、そして励まさなければなりません。
神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。(創世記21:20)
イシュマエルは成長し、荒野は彼が住む場所になりました。イシュマエルは馬を走らせ弓を射る強い大人の男になり、彼の周りには多くの人が集まったでしょう。荒野という苦しみの場所で生き延びることができた理由は、神がともにおられたからです。神の恵みは人間の助けとは比較になりません。人間の助けは皮袋の水のようにいつかなくなりますが、神の恵みは湧き出る泉のように枯れることがありません。人生の荒野が苦しく耐え難くても、神の泉で恵みの水を飲み、荒野の中でも喜びと感謝のある人生を生きられる皆さんになれるように祈ります。
彼はパランの荒野に住んだ。彼の母は、エジプトの地から彼のために妻を迎えた。(創世記21:21)
神様は約束を守る真実なお方です。イシュマエルを大いなる国民とするとの約束どおり、彼は結婚して12人の子宝に恵まれ、その子孫は大きく繁栄しました。このような祝福は、もしハガル母子が続けてアブラハムの家にいたなら期待できなかったことです。家を出るときは苦しみと恐れがきたが、神は摂理の御手の中ですべてを益となされたのです。神は決して失敗しない方です。ご自身の御心通りに、最も美しく最も良い時に約束を成就される全能なる神様です。
私たちクリスチャンは、苦しみの中に訪ねて来られる神様の恵みを通して生きています。人生の荒野を生きる私たちにも、ハガル母子にのぞんだ神様の恵みが注がれ、荒野が祝福の地になりますように心から祈ります。
この歳になって考えるのは、親が私に与えてくれた愛はとうてい言葉にできないということです。父と母は私を食べさせ、着させ、教えてくれました。その中でも特に、私が牧師になる道へと信仰で導いてくださったことは、生涯忘れることができない愛の賜物です。私の親は神様の御心を知っていたゆえに、また神様の導きに従うことが一番の祝福であることを知っていたゆえに、この道を歩むように勧めてくださったのだと私は確信してます。
イシマエルも年老いた母にこう言ったのではないでしょうか。「お母さん、すべてお母さんの愛の賜物であります。特にベエル・シェバの荒野で死にかけていた時、お母さんの涙の叫びのおかげで生きのび、神様の恵みを受けることが出来ました。あの涙の祈りがなかったら今日の自分はいないでしょう」と。
親は、重要な瞬間に、信仰に固く立って、神様の前で涙を流すべきです。全き心で神を信じて御心を分別し、子どもを起こして力づけるべきです。これが親の使命です。良いものを食べさせ、良い服を着せ、良い教育を受けさせたとしても、信仰の後ろ盾と信仰の教えと涙の祈りが必要な時に、その役割を果たせないなら人生に致命的なもどかしさを残すでしょう。
交野ベタニヤ教会の親たちは、子供のために涙をたくさん流し、祈り、立ち上がらせ、支える。そのような聖なるきよき親となれますようにと心からお祈りいたします。
以上