誰の人生にも勝利と成功だけがあるのではなく、失敗や過ちが多くあります。仕事で失敗したり、試験で失敗したり、結婚や恋愛に失敗したとき、私たちはどのように乗り越えればよいか、クリスチャンとして失敗や過ちに対してどのような姿勢をとるべきか、聖書を通して考えてみたいと思います。

1.失敗しても、絶望はしない

人生は険しい道のりです。生きていれば失敗したり過ちをおかすことは誰にでもあります。真面目に生きていても、悪しきサタンからの誘惑や妨害によって傷つき倒れることもあります。重要なことは、失敗そのものが問題なのでなく、失敗によって絶望することが問題なのです。

イエス・キリストの弟子ペテロは、「そんな人は知らない」とイエスを3度も否定するという大失敗をしました。しかし彼は、後に偉大な人物に変えられ歴史に名を残しました。その理由は、ペテロはイエスを否定したあと激しく泣きましたが絶望するのではなく悔い改めをしたからです。反対に、イスカリオテのユダは銀貨三枚でイエスを裏切ったあと、それが彼の良心の呵責となって絶望する中で、自らの命を絶つ道を選びました。

イエス様は私たちが失敗し何度罪をおかしたとしても、私たちを見捨てるような冷たい方ではありません。悔い改めて帰ってくる人を受け入れて下さる愛なるお方です。姦淫の罪をおかした女性がとらえられ、当時の律法で石打ちの刑に処せられようとしていたとき、イエス様は人々に「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言って人々を立ち去らせ、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と言って彼女をゆるしました。(ヨハネによる福音書8:3-11) このような主イエスを、まっすぐに見つめてください。そうすれば、あなたは主のものとなり、勝利者となり、神の愛を一心に受ける者となって、新しい人生を歩み出すことができるでしょう。

悪しきサタンは「大丈夫だ、すべてうまくいく」と甘い言葉で誘惑し、いざ失敗すると「大変だ、おまえは罪びとだ、ゆるされるはずがない」と言って希望を奪い絶望させます。反対に、聖霊は過ちをおかしても、そのことで心を痛めている人に慰めを与えて下さり、再び起き上がらせてくださることを忘れてはなりません。聖書は次のように語って、心を騒がせて絶望したりせず、心を強くするようにと語っています。

わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない(ヨシュア記1:9)
あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネによる福音書14:1)

2.失敗を正当化しない

全人類の祖先であるアダムは、失敗した責任をエバに転嫁し、エバは蛇に転嫁しました。彼らの子孫である私たちも、失敗の原因を他者や何かのせいにして、自分を正当化しようとします。自分の失敗を悟れず正当化する者は、神の前では高慢な者です。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うお方です(ペテロの第一の手紙5:5)。イエスは次のようなたとえ話をされました。

ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。(ルカによる福音書18:9-14)

失敗したり過ちをおかすことが問題ではありません。人は弱く、完全ではないので、間違った道に足を踏み入れることもあるのです。しかし、失敗したとしても、過ちをおかしたとしても、その原因を自分の中で早く分析してさとり、神様の前にひざをかがめて、主よどうかこのような私をあわれんでくださいと祈ることが重要です。

3.再び起き上がる

イギリスの作家で詩人のオリバー・ゴールドスミスは「人生の最大の栄光は、一度も失敗しないことではなく、倒れるたびに起き上がることにある」と言いました。日本にも「七転び八起き」という、ことわざがあります。一度失敗したからといって人生を放棄してはなりません。一度も虫に食われない木、一度も枯れそうにならない木はなく、そのような過程を通ることで木は強く育ち、美しい実を結ぶようになるのです。

孫たちを学校に送る時、50年以上前の古い車をよく目にします。古い車なのにピカピカで多くの人の目を引きつけています。たぶん、その車の持ち主であるおじいちゃんが孫を学校に送っているのでしょう。みなさん、歳をとったからといって、誰も私を見向きもしないと思ってはなりません。神様の恵みを受けて一歩一歩進めば、人生に花を咲かせてくださり、実を豊かに結ばせてくださいます。私はもう老い先が短いなどと唱えるのをやめましょう。神様の恵みが人生に充満するように、そして神様から呼ばれる日まで元気でピカピカの生きていかれますようにと、主の御名で祝福します。

私たちには知恵も力もありませんが、知恵と力の根源である神様が共におられます。私には家族を守る力はありませんが、私に家族を与えて下さった神様が共におられます。私には自分の健康を守る力はありませんが、私に命を与えて下さった神様が共におられます。そのことを忘れないでください。失敗したときこそ、全てのことを益となるようにしてくださる神様に祈ってください。

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ローマ人への手紙8:28)

失敗しても再び起き上がって勇気を出せば、以前よりももっと大きな恵みを受けると私は信じます。失敗は、神様の恵みをいただくチャンスであり、神様に出会うチャンスです。成功への道はひとつではありません。失敗しても人生は絶対に終わりません。信仰をもって勇気を出して前進すれば、今は失敗に見えても、もっとよい道が備えられていることを信じてください。今うまくいかないからと絶望したり、愚かにも神様をうらんではなりません。悩みの日に私を呼びなさいと言ってくださっているのに、呼ばないでいる私がわるいのです。

悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。(詩編50:15)

険しい世の波風の中で、失敗を良い方にうまく用いること、すなわち失敗を善用するみなさんとなることで、失敗を通して勝利し、すばらしい証しのできる人生を歩んで行かれますように。

以上