「名前がイエスである理由」2026.2.8
マタイによる福音書 1:18-23
なぜイエス・キリストを信じるのか? この問いに対する答えは、今日の聖書箇所の中にあります。
イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、
「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。(マタイによる福音書1:18-23)
御使いが名付けた「イエス」という名前の意味は「神は救う」であり、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となることが、イエス様がこの世に来られた目的です。キリスト教信仰の出発点は、ここにあることを心にとめてください。
ところが、罪の話をすると「クリスチャンはいつも罪の話ばかりしている」と、けむたがる人がいます。罪の深刻さをよく知らないからです。神が創造されたこの世界は、はじめは素晴らしい世界でありました。しかし、アダムとエバが、神が禁じられた善悪を知る木の実を食べた、その罪の結果、神が創造された世界は灰色に塗り変わりました。そして人間の心は罪によって欲で満ちるようになり、したいことや欲しいものが多くなり、思った通りにならないと怒り、憎み、嫉妬するようになり、時には盗み、奪い、殺し、それが集団化されると深刻な対立をもたらし、国家間の戦争にまで発展しました。このように、すべての苦痛と不幸の原因は罪にあります。罪は人生を破滅させ、家庭を壊し、社会を病むようにし、世界を滅びに連れて行きます。罪が解決されなければ真の喜びはないのです。
だからこそ、すべての人は必ずイエス・キリストを通して罪からの救いを受けなければなりません。それでは、罪の救いを得るにはどのようにすればいいでしょうか。次の三つの段階を踏む必要があります。
第一段階は、罪に対する責任感を感じること。つまり「罪責感」をもたなければなりません。
第二段階は、罪の悔い改めです。これは具体的にすることが必要です。また、悔い改める相手は人ではなく神です。人は人の罪をゆるすことはできません。
第三段階は、イエスの十字架の血潮の力を信じ、これを頼みとすること。イエスの血潮は罪を洗い清める力を持っています。
御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。(第一ヨハネ 1:7-9)
トルストイの作品に次のような物語があります。
ある村に、知恵者として知られる老いた巡礼者がやってきました。二人の女性が、自分の人生について彼に教えを請います。一人の女性は、かつて大きな罪を犯したことがあり、それをずっと忘れられず、自分はなんて罪深い人間なのだと何年も苦しみ続けていました。もう一人の女性は「自分は法を破ったこともないし、不道徳なこともしていない。愚痴を言ったり、小さな嘘をついたりはしますが、それは誰でもやること。私は大きな罪のない正しい人間です」と言いました。
老人は二人を見て、こう命じました。大きな罪を悔いている女性には「一番大きな石を一つとってきなさい」。自分には罪がないと思っている女性には「小さな石をできるだけたくさん拾ってきなさい」。二人は言われた通りにしました。
すると老人は、こう言いました。 「では、その石を、それぞれ元あった場所に返してきなさい」。大きな石の女性は、自分がどこからその石を持ってきたか、はっきりと覚えていたので、元の場所に石を戻すことができました。小さな石の女性は困り果て「先生、どこから拾ったか分からないので、戻せません」。
老人は、こう諭しました。「罪もこれと同じです。大きな石を運んだ彼女は、自分の罪をはっきりと自覚し、その重さを知っています。だからこそ、その罪を神の前に差し出し、元に戻す(悔い改める)ことができるのです。しかしあなたは、日々の小さな悪意や嘘、高慢さを『たいしたことはない』と見過ごし、積み重ねてきました。今や、自分でも何をどこで間違えたか分からず、罪を認めて悔い改めることさえできなくなっている。自覚のない小さな罪の積み重ねこそが、最も恐ろしいのです。」
私たちは、罪に対してもっと敏感にならなければなりません。最近、世の中は罪に対して無自覚になりました。「自分だけが悪いのではない」「みんながそのようにして生きているのだ」「あまり深刻に考えない方がいい」「それが人間らしさだ」と言います。アダムとエバが罪を犯した後で、神はいちじくの葉で彼らの恥を隠してくれましたが、最近は人々から羞恥心さえもなくなったのではないかと思います。
教会はどうか。私は教会の中からも悔い改めが消えてしまったのではないかという危機感を持っています。高慢な人、自己中心的な人は山ほどいても、自分自身が罪人であると告白して主の前に静かにひざまずく人。主の十字架の血潮でゆるしを受けたことに感激し、その恵みがあまりにも大きいゆえにどう感謝すべきかわからず、ただただ主にひざまずく人。そのような人はほとんどいません。
ペテロがイエスの弟子として呼ばれたのは、「自分はベテラン漁師である」と自負心を持っていた時ではなく、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」(ルカによる福音書5:8)と告白したときでしたし、預言者イザヤが召命を受けた時も「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」(イザヤ書6:5)とイザヤは語りました。
キリスト教信仰は自信がある人たちの祝祭ではなく、また天国は自らの優秀さをほこる人が行く場所ではありません。「主よ、私は罪人です。私は取るに足りないものです」と告白し、悔い改め、イエスの血潮の恵みによって義(罪が無い者)と認められ、新しく生まれ変わる。これがキリスト教信仰であり、天国に入る人の姿です。
あなたが「イエスを信じて何か得をしましたか」と尋ねられたら、「イエス様を信じて罪からの救いを受け、死の力からも救われ、永遠の命をいただきました。これ以上、悪魔が私を支配することはできません。私は尊い神の子どもになったのですから」そのように言えることのできる皆さんとなることを心から願います。
そして、このような霊と魂の救いを得ただけではなく、生活環境の呪いから祝福へ、死と病から命へと変えられる、広い意味での救いを得たことを忘れないでください。私たちは、ただ霊と魂が救われて永遠の命を得た、ということだけで終わってはならず、この世における罪の結果からの救いを得たことが十字架の救いなのです。キリストの血潮によって救われたキリスト者は、天の御国に入る日まで、その肉体の健康が守られます。神は、単純に霊と魂の救いを与えるだけでなく、たましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるように(ヨハネの第三の手紙1:2)してくださったのです。ただ魂が救われ永遠の命を得るという、そのような狭い意味での救いだけに心を置くのではなく、全能なる神様はよき神様であることを確信し、神様が備えてくださった恵みの川に飛び込んでください。
私たちが、イエス・キリストを信じる信仰によって、義に生きることのできる成功的な人生を歩ませるために、主は十字架にかかって下さり、私たちの全ての罪をご自分の身に負われた、そしてイエス様がむち打たれたことによって私たちの病がいやされた。この恵みを忘れることがないように、また、その恵みにあずかる皆さんとなるように、主の名によって祝福いたします。
さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。(ペテロの第一の手紙2:24)
以上