「先と後」2026.1.18
マタイによる福音書19:27-30

ある日、お金持ちの青年が、イエスに近寄ってきて質問しました。

ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。(マタイによる福音書19:16)

このような質問をするとは、立派な心掛けの青年であると思います。ですが残念なことに、彼は出発から間違っていました。自分が何かをすれば、永遠の生命を得ることができると考えていたからです。

うちの孫は、私と楽しく遊んでいる最中でも、父親が仕事から帰ってきたら、私のことは気にも留めず「パパー!」と言って走り去っていきます。ありがとうの一言もありません。一目散に駆けだしてパパに飛びつきます。子どもは、ただ父親が好きだから行くのです。父親が大好きで、ずっと父親と一緒にいようとします。

お金持ちの青年は、特にイエスが好きというわけでもなく、永遠の生命を得るための助言を求めて来ただけで、答えを聞けば帰る人でした。ここに、この青年の決定的な誤解があります。永遠の生命は、善行や施しをすることで得られるものではありません。神の愛に感激し、心からの感謝の心をもって主の前にひざまずくとき、何のとりえもない、何の資格もないような私に、神はあふれる恵みを注いでくださるのです。

永遠の命を得る方法をきかれたイエスは、青年にどう答えたでしょうか。二人のやりとりを見てみましょう。

イエス:なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい。
青 年:どのいましめですか。
イエス:『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』
青 年:それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう。
イエス:もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。(マタイによる福音書19:17-21前段)

イエスの答えは、いましめを守り多くの施しをすれば救いを得られるという誤解を招くようにも聞こえます。そこでイエスは最後に重要な一言を言われました。

そして、わたしに従ってきなさい。 (マタイによる福音書19:21後段)

永遠の命は、良い行いや施しをして得られるのではなく、イエスを信じ従うことで得られるのです。イエスは永遠の生命を得る道を教える方ではなく、イエスご自身が永遠の命なのです。

わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(ヨハネによる福音書14:6)

では、なぜイエスは青年に、いましめや施しについて言及されたのでしょうか。それは、イエスに従うための準備を言われたのです。心の中が何かでいっぱいの人は、なかなかイエスに従うことはできません。イエスをお迎えするスペースが必要です。持ち物を売り、貧しい人に施すのは、心の中を明け渡すために必要なことなのでした。青年の反応はどうだったでしょうか。

この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。(マタイによる福音書19:22)

青年が去ったあと、この会話を聞いていたペテロは、イエスにこう言いました。

「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。 (マタイによる福音書19:27)

ペテロは、もと漁師です。彼は船も網も捨ててイエスに従いました。主よ、あの青年は何も捨てられません、しかし私は船も網も捨ててあなたに従いました、だから何をもらえますか?と、イエスと取引するかのごとく褒賞をもとめました。イエスは言われました。

イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。 おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。(マタイによる福音書19:28-29)

イエスは彼らが受ける報いについて話し、最後に重要な一言を言われました。

しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。(マタイによる福音書19:30)

この言葉は、何を意味するでしょうか。イエスは続けて、次のたとえ話を弟子たちにされました。

天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。 
それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。 そこで、彼らは出かけて行った。
主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。 

さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。 
ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。 

そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。 (マタイによる福音書20:1-15)

このたとえ話で、早朝から来た労働者たちはイエスの弟子たち、ぶどう園の主人は父なる神様をあらわしています。自分たちは何倍も働いたのだから、何倍も賃金をもらえるだろうと、早朝から来た労働者たちは期待しましたが、同じ賃金しか支払われなかったので、主人に不公平だと抗議しました。ところが主人はきっぱりと、これは私の自由意志であると答えました。イエスは、この話の最後を、先ほどと同じ一言で締めくくっています。

このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。(マタイによる福音書20:16)

この言葉は、弟子たちへの警告でした。なぜ警告が必要だったか。ペテロをはじめ弟子たちは、早くからイエスに従ってきたので、自信と高慢に満ちていました。だから早朝から来た労働者たちのように、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」と期待したのです。

この話を、私たちはどう受け止めるべきでしょうか。自分が早朝から来た労働者と考えるなら、私はこんなに働いている、多くの努力をしていると高慢になり、相応の褒賞を期待するかもしれません。しかし、自分は最後に来た労働者であると考えるなら、こんな私のようなものが神様を信じられるようにしてくださり、イエス様に従うようにしてくださったと感謝でいっぱいになるでしょう。

今年の当教会の標語は「道に進み行きなさい」です。この標語を申し上げる時、高慢におちいらないかと心配になるときがあります。神様、私はすごいでしょ、こんなに忠実に仕えてきました、私が受け取る褒賞はどれくらいありますかと。

神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う(ペテロの第一の手紙5:5)

用事が終わったら帰る人のように、イエスをときどき訪ねてきて祈りをあれこれ言って、そのまま帰ってしまう。それでは、イエスのいないキリスト教、イエスのいない教会、イエスのいない信徒になりかねません。主が私たちのために流された十字架の血潮、復活の勝利、選びの恵み、聖霊のみわざを忘れてはなりません。この私は何の資格もない、主に呼ばれなければ従うこともできない。そのような謙遜と感謝をいつもおぼえ、ただお父さんが好きで、その胸に飛びこむ子どものように、ただイエス様が好きで、イエス様に従い、いつもイエス様とともにいる。そういう教会、そういう信徒になるべきです。いつも最後に来た労働者としての自覚と感激をもって、涙の感謝をささげ、謙遜に主に従ってまいりましょう。

以上