ある日、静かな田舎町であるベツレヘムに小さな騒ぎが起きました。あまりにも懐かしい人が現れたからです。その人とはナオミでありました。

ナオミの家庭は、元々ベツレヘムに住んでいましたが、飢饉を逃れるためモアブの地に移住しました。しかし、モアブでナオミの家庭は完全に崩壊してしまったのです。ナオミの夫エリメレくは亡くなり、二人の息子はモアブ人の女性と結婚しましたが、子を残すことなく二人とも世を去りました。残されたのはナオミと息子たちの妻の三人だけでになりました。

絶望したナオミは故郷ベツレヘムに帰る決心をします。長男の妻は実家へ帰りましたが、次男の妻ルツ(私は、個人的にはルツがとても好きですけれども)は、義母ナオミが実家に帰って人生をやり直すように強く勧めましたが、こう言いました。

しかしルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください」。(ルツ記1:16−17)

ルツの固い決心を見てナオミはこれ以上言うことをやめ、二人でベツレヘムに帰りました。ベツレヘムは神様に与えられた約束の地であり、モアブに逃れたことは信仰生活の失敗を表し、ベツレヘムへの帰還は神のもとに帰ってきたことを意味します。これ、すなわち悔い改めであります。

ギリシャ語で悔い改めをメタノイアというのですが、この言葉の意味は、行く方向が間違ったことに気づいた人が方向転換して正しい方向へ行くことです。つまり、悔い改めとは方向転換であります。これを心に留めながら、本日の聖書箇所詩篇120篇を読んでみましょう。

わたしが悩みのうちに、主に呼ばわると、主はわたしに答えられる。
主よ、偽りのくちびるから、欺きの舌から、わたしを助け出してください」。
欺きの舌よ、おまえに何が与えられ、何が加えられるであろうか。
ますらおの鋭い矢と、えにしだの熱い炭とである。
わざわいなるかな、わたしはメセクにやどり、ケダルの天幕のなかに住んでいる。
わたしは久しく平安を憎む者のなかに住んでいた。
わたしは平安を願う、しかし、わたしが物言うとき、彼らは戦いを好む。

詩篇120篇から134編はいずれも「都もうでの歌」とあり、イスラエル人がエルサレムの神殿に巡礼する際に歌われた歌です。ナオミの家庭がモアブで苦しみを経験したように、この歌の詩人はメセクにやどり、ケダルの天幕のなかに住んでいることを、わざわいなるかなと骨身にしみるほど悔いるようになりました。メセク族とはヤペテ(ノアの息子)の子孫であり、ケダル族とはイシマエル(アブラハムの息子)の子孫であります。両方とも、非常に好戦的な人たちだったのです。

詩篇120篇の詩人が、なぜそのような所に住んでいるかは不明ですが、豊かさを楽しもうと欲に目が眩んだのかもしれません。いずれにしても詩人はそこで「主よ、偽りのくちびるから、欺きの舌から、わたしを助け出してください」と叫ぶほどに、偽りを持って口撃してくる者たちによって大きな苦しみを受ける経験しました。

詩人は怒りを表して「欺きの舌よ、おまえに何が与えられ、何が加えられるであろうか。ますらおの鋭い矢と、えにしだの熱い炭とである。」と叫びました。えにしだの木で起こした火力は非常に強く長持ちしたそうで、本当かどうか分かりませんが、炭火が1年経っても種火が残っていたという話が残っているほどです。それほど長く続く詩人の強い復讐心が現れています。

ダビデは神に最も愛された人ですが、彼もそのような復讐心を持っていました。しかし、彼は自分の罪に気付いた時、正直な心で「主よ、この罪深き者を憐れんでください」と祈りました。神が私たちに求めていることは完璧な信仰ではなく、神の前に正直になることであります。痛い時には痛い、苦しい時には苦しい、助けを欲しい時には主よ助けてくださいと涙をもって叫ぶとき、主は答えます。私はあなたの叫びを聞いた、あなたの目の涙を見たと。神は計り知れない愛で私たちを包もうと、いつも待っておられるのであります。

120篇の詩人も私たちと同じ、肉を着た1人の弱き魂なのです。詩人はあまりにも苦しみを多く経験し疲れ果てた後に、「わたしは久しく平安を憎む者のなかに住んでいた。わたしは平安を願う」と、深く悔い改めをするようになりました。皆さん、今 詩人はどのようにすれば良いのでしょうか。それはメセクとケダルから離れることです。続けてそこに残っていてはなりません。ナオミがモアブを離れてベツレヘムに帰ったように、神に帰るべきであります。

愛する皆さん、6月の最後の日曜礼拝を今 私たちは捧げています。2025年の半分が終わろうとしています。振り返ってみると、あっという間でありました。過ぎ去った 6ヶ月の人生を振り返ってみて下さい。もしかすると神様が定められたその場所を抜け出して、ケダルの天幕へ向かって走っているのではないでしょうか。欲望に目がくらんで暗闇に包まれた 場所を美しい所と錯覚して心を奪われて生きているのではありませんか。もしかすると御言葉と恵みを離れて、自分の力だけに頼り、欲の赴くままに世に向かって走っているのではないでしょうか。この世の美しい光に惑わされて、神の前に敬虔な心でひざまずくことができないでいるのではありませんか。御言葉へと帰っていく旅が中断され、祈りが消えているのではないでしょうか。この時間、ご自身の霊と魂と人生を振り返ってみることをお願いします。

もしモアブで苦しみ思い煩っているのであれば、未練を捨ててベツレヘムへと、神のところへと進み行くべきであります。放蕩息子のように、神は私たちが帰ってくるのを待っておられます。放蕩息子の父が帰ってきた息子に最上の着物を着せ指輪をはめさせたように、神は神のもとに帰ってくる者を受け入れてくださり抱きしめてくださいます。私たちは、神のない人生から方向転換し、神の前に出なければなりません。欲望の夜の街を離れ、聖なる神の宮へ上っていくべきであります。そうすれば、絶望から希望へと歩み出すことができるでしょう。

神の宮へ上っていく人生、神の前に進み行き、神を心に迎えて、神と共に前進する人生は、神がイスラエルの民に求めた人生でありました。彼らは祭りごとに散らされて生活していた場所からエルサレムの神の宮に向かって行きました。神の宮は彼らの人生の中心でありました。皆さん、辺境に住む敬虔なイスラエル人を想像してみてください。彼は長い間 準備し家族に別れの挨拶を告げて巡礼の旅に出たでしょう。巡礼の目的は明確です。巡礼者の目的地は神の家であります。今の私たちキリスト者の目的地は天国であります。神様が待っておられるところ、それが 巡礼者である私たちの最後の目的地であります。

しかし、巡礼者もこの世の旅路において疲れ果てることも多くあります。傷つき心が悲しみに包まれる時があり、涙の時もあります。時には人からの口撃を受け、危険な目にも遭遇します。巡礼者はそのようなことが起きるたびに目をあげてそして祈ります。

詩篇121篇 都もうでの歌
わたしは山にむかって目をあげる。
わが助けは、どこから来るであろうか。
わが助けは、天と地を造られた主から来る。
主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。
あなたを守る者はまどろむことがない。
見よ、イスラエルを守る者は
まどろむこともなく、眠ることもない。
主はあなたを守る者、
主はあなたの右の手をおおう陰である。
昼は太陽があなたを撃つことなく、
夜は月があなたを撃つことはない。
主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、
またあなたの命を守られる。
主は今からとこしえに至るまで、
あなたの出ると入るとを守られるであろう。

巡礼者はこの歌を歌いながら再び道を急ぎます。ある日ついに遠く夕焼けに赤く染まる聖なる都エルサレムが目に入ってきます。巡礼者は再び足を急がせてエルサレムに到着します。そして古い宿に疲れた体を横たわらせます。次の日の朝、彼はまるで別人になったように、きれいな新しい衣に着替え、感激を持って神の宮に入ります。そして捧げ物を捧げ、跪いて祈り、涙を流し、言葉では言い表せない平安が全身を包みます。これがエルサレムの神の宮に上る巡礼者の姿であり、これがまさに私たちの人生のあるべき姿だと思います。

一年の半分が過ぎて後半を迎える今、人生を点検する良い時であります。点検し、そして決心すべきであります。散らかっていた机の上を整頓するように、霊と魂と生活を整理整頓し、後半を始めるべきであります。そのような心で進んでいく皆さんと皆さんの愛する家族の上に、神様の計り知れない温かい愛がのぞみ、希望の光が照らされる。そのような平安が訪れることを信じます。

以上