イエス・キリストは、神の恵みを求める人を喜ばれました。それも熱心に求める人、恵みを渇望する人を喜ばれました。神の恵みを渇望する人とはどのような人なのか、それが分かるたとえ話をイエスは語られました。
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬(たとえ)をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。(ルカによる福音書18:9-13)
パリサイ人はユダヤの律法に精通した人たちですが、このパリサイ人は自分が律法に従い敬虔に生きていると自慢げに言葉をつらねるだけで神の恵みはまったく求めていません。むしろ、今の自分は大丈夫です、何の心配もありませんと言わんばかりです。一方、取税人は周囲から見下されていた人たちでしたが、この取税人の祈りには自慢の言葉は一切なく、自分が罪びとであると認め、自分の胸を打ちならが「私をゆるしてください」とひたすら神様の恵みを求めました。
この世には2種類の人間がいます。恵みを必要としない人間と、恵みを求める人間です。恵みを必要としない人は、自分は正しい人間であると思います。恵みを求める人は、自分を罪びとであると認めて神のあわれみを求めます。そしてその祈りはこの取税人のように単純かつ切実です。
イエスは、このたとえ話の結論を次のように語られました。
「あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(同18:14)
もう一人、神の恵みを渇望する人の話がマタイによる福音書15章に記録されています。
さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。(マタイによる福音書15:21-22)
叫びつづけたとあるように、この女性は一度、二度ではなく持続的に何度も主に恵みを求めました。ところが、彼女へのイエスの反応は私たちを当惑させます。イエスは一言もお答えにならなかったのです。
それでも彼女は叫びながらイエスについてきました。たまりかねた弟子たちは「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」とイエスに願い出ました。するとイエスはさらに冷たい態度を示され、次の言葉を発せられました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」(マタイによる福音書15:24)
ここまで言われても、彼女はイエスに近寄り必死になって助けを求めました。しかし、それでもなおイエスの態度は冷たいままでした。そして私たち人間的には耳を疑うような言葉を発せられました。「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」(同15:26)
この言葉に対する彼女の言葉は、私たちを感動させます。
「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」(同15:27)
もう胸が痛くなるような切実な願いです。ここで私たちは彼女から学ぶべきことがあります。それは、恵みを得るには自尊心は必要ないということです。恵みを渇望するなら感情は捨てるべきです。私は先日、検査を受けるため病院に行きました。裸になり検査着に着替え、下着も全部脱ぎました。恥ずかしかったです。しかし、恥ずかしがっていては検査を受けられません。あなたが本当に神の恵みを受けたいなら、自尊心はすべて捨てて主の手術台の上に横になるべきです。ヤボクの渡しで神の人と格闘して「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」(創世記32:26)と叫んだヤコブのように、最後まで主にしがみつくべきです。
イエスは彼女が恵みを渇望しているのかその信仰を試みられ、切実な求めを待っておられたのです。彼女は放棄することなく切実に求めたので、イエスは喜んで言われました。
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。(マタイによる福音書15:28)
私は最近、誰が主を喜ばせるかとよく考えます。まことを尽くす人、忠誠心をもつ人、奉仕する人、献身する人、優しい人など、多くの答えがありうると思います。しかし、主を一番喜ばせる人は恵みを渇望する人であるとマタイによる福音書15章全体を読んでそう思うのです。イエスは宗教的制度や教会組織を作るためにこの世に来られたのではなく、人をいやし、回復させ、命を得させるために来られました。だからこそイエスは恵みを受けるために近づいて来る人を喜ばれ、そのような人を愛されるのだと思います。
キリスト教において罪人が義人に変わることは重要な変化ですが、それよりも先に起きるべき変化があります。それは恵みを求めなかった人が、恵みを求める人に変わることです。「主よ、私を助けてください」という祈りがなかった魂が、「主よ私を助けてください、どうかあなたの恵みを罪びとである私に与えてください」と切実に祈り求める魂に変化することが何よりも重要です。
明日のことも知らない私たちは、神の恵みがあってこそ良い人生を歩むことができます。信仰生活の長さや教会での働きに関係なく、主の前にひざまずき恵みを求める者になりましょう。主の恵みを受けた喜びと感謝が、私たちみんなの心に満ち溢れるよう願います。そのような私たちになる時、主も私たちによって喜ばれるでしょう。
以上