本日の聖書箇所は、バルテマイという盲人の物ごいが癒された話です。ここを読んでいたら涙があふれて止まらなくなりました。バルテマイの姿に、何のためにこの1年を生きてきたのだろうと恥ずかしいような思いがしたからです。

 それから、彼らはエリコにきた。そしてイエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。

 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。イエスは立ちどまって、「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。

 そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。(マルコによる福音書10:46-52)

 バルは息子という意味で、バルテマイはテマイの息子という意味になります。その日、バルテマイはいつもと同じようにエリコの町の道ばたに座って物ごいをしていました。当時、目が不自由な人、体に障がいを持つ人は仕事につくことができず、生きていくには物ごいをするしかありませんでした。彼らは少しでも多く施しを受けるために人通りの多い道ばたに置かれていました。

 この日からさかのぼること約30年前、イエス様はベツレヘムの町に誕生されました。その時、羊飼いたちや、後に東方の博士たちが来て、幼子イエス様に出会いました。そして成長されたイエス様は、出会った多くの人々をなぐさめ、病を癒し、死人を生き返らせ、その時代の人々に希望を与えられました。これらの人々に比べれば、バルテマイとイエス様との出会いはとても遅かった。このときイエス様は十字架にかかるためにエルサレムに向かう途上におられましたので、この日はバルテマイがイエス様に出会うことのできる最後の機会でありました。

 この最後のチャンスに、バルテマイはイエス様を自分の人生にお迎えすることに成功しました。見えるようになり、将来への希望を持つことができるようになり、キリストにあって新しく生まれ変わることができたのです。クリスマスは、おいしいものを飲み食いしたりプレゼントを交換するだけのお祭りではありません。イエス・キリストと出会い、キリストを心の中心にお迎えして、新しく生まれ変わる日です。イエス・キリストを通して喜びと平和に導かれ、永遠の命を得られれば、その人にとってその日が真のクリスマスです。遅くてもいいのです。イエス様に出会いさえすればそれで良いのです。

 私たちはバルテマイから「祈りの重要な2段階」を学ぶことができます。第1段階はイエス様への呼びかけです。

 17世紀の作曲家グレゴリオ・アレグリの作品に「ミゼレーレ」という楽曲があります。ラテン語の歌詞「ミゼレーレ メイ、デウス」は「主よ、私をあわれんでください」という意味です。当時、受難週にシスティーナ礼拝堂で、ろうそくを一つ一つ消していく敬虔な儀式の最後に歌われました。ろうそくが消えて暗闇が迫ってくるその最後の瞬間に「主よ、私をあわれんでください」と祈る歌声は、罪によって希望が失われ絶望するしかない私たちにとって、希望はイエス様だけであると涙をもって懺悔の告白しているかのようであります。

 クリスマスは、道ばたで悲惨な姿で倒れている私たちの前に、イエス様が来られる日であります。私たちがすべきことはクリスマスキャロルを歌い、プレゼント交換をすることではありません。前を通られるイエス様を呼んで祈らなければなりません。達弁な祈りはいりません。祈り方を知らなくても大丈夫です。ただ「主よ、私をあわれんでください」と、救われなければいけない自分の悲惨さを悟り、涙と切実さと真心を込めてイエス様を呼べばよいのです。

 みなさんも、本当に苦しくて、心がもどかしくて、明日が不安で、自分が無のように感じられて、自分の無力さに打ちひしがれて、叫びたいと思ったことがあるでしょう。バルテマイもそうでした。目が見えない苦しみの中で、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」(48節)と声を上げて叫びました。この祈りを通して、イエス様はバルテマイにのぞまれたのです。これが祈りの第1段階であります。

 祈りの第2段階は、本当に重要なことを求めることです。バルテマイはイエス様から呼ばれるや否や「上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた」とあります。律法の中に、上着を抵当として取ったならば日が暮れる前にそれを返してあげなさいという教えがあります。その理由は、当時の人々にとって上着は生きていくために欠くことのできない重要な財産であり貴重品だったからです。しかもバルテマイにとっては上着が全財産であったでしょう。ところが、それを彼は脱ぎ捨ててイエス様のもとに進み出て「先生、見えるようになることです」(51節)と、彼にとって一番重要なものを求めたのです。

 ここを読みながら、私は心の中に大きなうねりのような感情がわき起こってきました。そして涙ぐみました。この1年間、自分は本当に重要なことを追求したのか、それとも本当は重要ではないことに心をとらわれ、しばられて生きてきたのではないか。正直に申しますと、時には自分の考えを押し通して相手に認めさせることで小さな利益を得ることが、命よりも大切なもののように思われて、声を上げて大切な人を傷つけ葛藤したこともありました。静かに考えてみれば、むしろそれらのものは私をみじめにし、みすぼらしくするだけであることに気づきました。主の前に、誠に恥ずかしいことばかりであります。いまイエス様から「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられたらどう答えればよいかと考えてみてください。「上着」に執着しないで、主の恵みを真剣に受けるべきです。

 イエス様はバルテマイの祈りを聞かれ、彼の人生に入って来られて、彼の主となりました。イエス様が「行け、あなたの信仰があなたを救った」(52節)と言われると、バルテマイの目が開かれました。彼が一番初めに見たのは、優しく憐れみ深いイエス様でした。彼は誰から説明を受ける必要もなく、その方が主であることを悟ります。これが、バルテマイがエリコの町の道ばたで迎えたクリスマスです。イエス様が誕生してから30年も過ぎたある日、物ごいをしていたその場所にクリスマスが来たのです。それは、羊飼いや東方の博士たちのクリスマスにも引けを取らないものでした。彼は目が見えるようになっただけでなく、イエス・キリストを得ました。見えるようになったバルテマイは「イエスに従って行った」(52節)とあります。彼はキリストの人となったのです。

 バルテマイはイエス様に従って今まで行ったことのない道へと歩み出しました。その道は、真のクリスマスを経験した人が歩む道であり、しばしば狭く険しい時もあるが、あちこち回って必ず天国の門につながる命の道です。みなさん、誰かがバルテマイにイエス様がエリコの町を通られると知らせたように、主のご生誕を周りの人々に伝えましょう。すべての人が永遠なる天国までイエス様に従って歩んで行けるようにと心から願います。

以上