私は、イエス・キリストなしには生きてくことはできません。その理由は何でしょうか。ある日、イエスは取税人のマタイの家に入り、一緒に食事をされました。これを見たパリサイ人たちはイエスの弟子たちに向かって 「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」(マタイによる福音書9:11)と、イエスの行動を非難しました。当時、取税人は私腹を肥やすローマ帝国の手先であると周りから忌み嫌われる存在だったからです。イエスはこれを聞いてこう言われました。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(マタイによる福音書9:12-13)
ここに、主がこの世に来られた目的が罪人を招くためであると明確に示されています。皆さんの心の中に、こんな私が神の恵みを受ける資格があるだろうか・・・と自責の思いがあるなら、それは当然であります。使徒パウロもこう告白しています。
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。(ローマ人への手紙7:15-25)
この告白は、私たちの告白です。だから私たちにはイエスが必要なのです。イエスはこのような私たちこそを招き、救うために来られたのです。イエスに出会う人は、二つに分かれます。罪人を救うために来たイエスを信じて心に迎え入れる人と、そうでない人です。受け入れるか、押し返すかの二者択一。分岐点は、自分自身が罪人であるという認識が有るか否かです。自分はどこにも問題が無いと思う人は、イエスを必要としません。この点について、イエスは次のたとえ話をされました。
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。(ルカによる福音書18:9-14)
人間は二種類に分けられます。それは「義人」と「罪人」の二種類、ではありません! なぜなら、神の目線から見ると義人は存在しないからです。「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ人への手紙3:10)とあるとおりです。二種類とは、自分が罪人であることを「知っている罪人」と「知らない罪人」です。先ほどのイエスのたとえ話では、前者は取税人、後者はパリサイ人です。パリサイ人は誰よりも信仰生活守っている自分たちには罪のゆるしなど必要ないという傲慢がありました。
アダムとエバが最初の罪をおかし、その子孫である私たち全ての人類は生まれながらの罪びとです。罪の代価は死、永遠の滅びです。罪によって全人類は死ぬべき存在となり、現世においては悪魔の支配を受けるようになったのです。しかし、イエスがこの世に来られて私たちの代わりに罪の刑罰を受けて下さいました。その結果、イエスを信じる私たちも、イエスのように死に打ち勝ち、復活し、永遠の命が与えられます。私たちは父なる神の子となり、これ以上悪魔の力に支配されることは無い。これが神がイエス・キリストを通して与えてくださった救いであります。
この救いは信じるだけで得られます。だから誰でも簡単に救いを受けられます。しかし、救いほど難しいものはありません。その理由は、多くの人が自分は罪人であると考えず、自分は正しいと自負しているからです。ですから、罪を自覚して悔い改めることが大切です。自分の罪を悔い改めることは、知識の多い人や、世の中で成功した人にはとても難しいことです。しかし、一つだけ道があります。それは聖霊を受けることです。聖霊は閉ざされた心を刺して入り込まれます。かたくなな心を溶かし、涙の悔い改めに導き、救いを渇望するようになります。
イエスは、復活から40日経って天に昇られましたが、その時「助け主、聖霊を与える」と弟子たちに約束されました。弟子たちはイエスの約束を信じて「屋上の間」で心を一つにして祈り続けていました。そして五旬節の祭りの日に、聖霊が降臨したことが次のように聖書に記されています。
五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。(使徒行伝2:1-4)
このように聖霊が風のように、また火のように弟子たちに下り、彼らはこれまで一度も話した事のない外国の言葉で語りだしたのです。この日は五旬節の祭りの日で、遠方の国からも巡礼のために人々がエルサレム神殿に集まっていました。ヘブル語、ギリシャ語、アラム語、エジプト語、イタリア語、ラテン語など、そこにいた人々みんなが分かるように話す弟子たちに、人々は驚き怪しみました。ある人たちは嘲笑いながら「彼らは酒に酔っているのだ」と言いました。そこで、弟子のひとりであるペテロが、広場(神殿の庭)で人々に向かってこう語り始めました。
「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。 今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。 そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。(中略) イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。 このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。(中略) そして、わたしたちは皆その証人なのである。 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。 (中略) あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。(使徒行伝2:14-36)
このように、ペテロは聖霊に満たされて、多くの人々の前でイエスの十字架と復活の福音を大胆に語りました。これを聞いた人々の反応はどうだったでしょう。
人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。 (使徒行伝2:37)
ここには、地方からの巡礼者もいたし、エルサレムの住民もいました。その中にはイエスを十字架につけよと叫んだ人々、パリサイ人や律法学者などもいました。そのような彼らが、強く心を刺されて「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言ったのです。これこそが、救いにあずかる恵みの始まりであり、自分の罪を知った者の告白です。彼らが悔い改めに導かれたのは、聖霊が内に働いたからです。ペテロら弟子たちに聖霊が降り、ペテロのメッセージを聞く人々にも聖霊が働いたので、高慢の壁がくずれ、罪を嘆き、どうしたらいいかという求めになったのです。
どうしたらよいのでしょうかと問う人々に、ペテロはこう答えました。「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」(使徒行伝2:38)
その日、悔い改めた人は3000名ほどあったと記されています。聖霊は、この五旬節(ペンテコステの日)に、屋上の間だけでなく、神殿の広場にもくだりました。屋上の間では風や炎のように現れて、これから福音伝道に向かう弟子たちに力と賜物を与えました。また、広場においては、人々の心に静かに鋭く切り込み、入り込んで、その頑な心を溶かし、癒し、慰め、閉ざされていた心の扉を開き、心の中に明かりをつけ、罪を見つめさせ、悲しみと嘆きに導いて、私たちはどうしたらよいのでしょうかという告白に導かれました。
私たちがまず最初に体験するべきは、自分の罪を悟り悔い改めて救いにあずかることです。聖霊の力と賜物はその次です。聖霊の力と賜物は、救われた信徒なら正しくそれを用いることができます。今日、聖霊降臨日(ペンテコステの日)を迎えて、広場に臨む聖霊と、屋上に臨む聖霊を、皆さんが体験されますように心から願います。
以上