「血を見る」という言葉には否定的なひびきがあります。しかし、聖書的には、血を見ることが神の祝福をいただく道につながります。本日の聖書箇所「出エジプト記12章」を読むと、そのことがよく分かります。イスラエルの民は430年間、エジプトの地で奴隷として苦しい生活をしいられていました。神は、イスラエルの民を解放しなさいとエジプトの王ファラオに命じましたが、かたくなに抵抗して神の御言葉に従わなかったため、九つの災いがエジプト全土におよびました。そして、最後の災いがくだされる夜、この災いによってイスラエルの民は出エジプトを果たすわけですが、エジプト人だけに悲劇が襲い、イスラエルの民は災いを避けることができました。その理由は、災いが「過ぎ越し」ていく方法を、神がイスラエルの民に教えてくださり、それを彼らが実行したからです。
その内容こそが、血を見ることによって祝福を得る道でありました。神はイスラエルの民に、傷のない子羊をほふり その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならないと言われました。そうすれば、その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろうと。(出エジプト記12:1-14より)
血を流すことの意味は何でしょうか。聖書は 「罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙6:23)と語っています。この世には義人すなわち神の目に正しい人は一人もいない、すべての人は罪びとである、そして、その報酬は死、すなわち永遠の滅びであると。ところが、人間の身代わりに何の罪もない子羊が血を流して死んだ、罪ある人間が子羊のおかげで死なずに済んだ。これが、過ぎ越しの血の本質的な意味であります。
ユダヤ人はこの出来事を記念して「過ぎ越しの祭り」を毎年行うようになりました。そして、この祭りはイエス・キリストが成就された十字架の血による救いの型でありました。イエス様はご自身が過ぎ越しの子羊となって十字架にかかられ血を流して死なれることで、私たちは罪ゆるされて永遠の滅びから救われたのです。
ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 (ヨハネによる福音書1:29)
わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。(コリント人への第1の手紙5:7)
血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。(へブル人への手紙9:22)
このように、血を見ることは否定的なことではなく、神からの重要な恵みなのです。罪びとはイエス様が十字架で流された血によって生きるようになるのです。ですから、私たちはキリストの血潮に頼り、血潮の恵みを信じて生きるべきです。動物の血を入り口の柱やかもいに塗るということは、一番よく見えるところに塗ることです。私たちもイエス様の血潮を一番目に付くところに塗らなければなりません。つまり、財産や学歴や力といった人間的なものを前面に出して誇るべきではないのです。私たちの誇りはイエス・キリストです。神様の前で私たちは罪びとにすぎないのですから、自分を誇らず、イエス様だけを誇るべきであります。イエス様の血で救われた私たちに言えることは、死ぬべき罪深い私のような者を、計り知れない愛、神のひとり子をたまわるほどの愛で愛してくださった恵みに、たただた感謝しますということだけであります。「誇る者は主を誇るべきである。」(コリント人への第2の手紙10:17)
神は出エジプトした月を、あなたがたの初めの月とし、これを年の正月(最初の月)としなさい(出エジプト記12:2)と言われました。つまり過ぎ越しは、イスラエルの民族としての出発点となったと言えます。同時に、過ぎ越しの恵みは私たちの存在としての出発点でもあります。私たちにとって、もっとも重要な始まりはキリストの血潮の恵みを信じて神の子となった日です。その日から、私たちは考え方も、目標も、生き方も変わりました。以前は自分の欲望につかえていましたが、今は神様につかえています。以前は自分の思いのままに生きていましたが、今は神様の御言葉にしたがって生きています。 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリント人への第2の手紙5:17)
私は救いを受けた神の子である、ということが人生の原理になるべきであり、すべての決定・判断・行動は、それを起点としなければなりません。救いを受けた神の子であるので、怒りをおさえて言動を慎み欲望を節制し、自分を低くして周りに仕え、忍耐し、ゆるします。時間と物質をささげ、献身し、奉仕します。私のものを時には苦しんでいる人に分け与えます。また、苦しんでいる人々を思い出して時間を割いて祈ります。これらは神の愛に導かれている神の子としての特権なのです。
また、過ぎ越しの恵みには、過去を離れて未来へ進みなさいという神様の御心も含まれています。神様は、過ぎ越しの食事を腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない(出エジプト記12:11)と言われました。つまり、出発の準備を完全に終わらせて、いつでも未練なくエジプトを離れるよう命じられたのです。彼らは、神の力と愛に全存在をかけて、過去をすべて置いて未来へと進んでいきました。私たちも、エジプトがどんなに豊かで肥えた土地であっても、躊躇せず離れるべきです。
ところが、多くの人が救いを受けたと言いながらも、古い人生を離れることができません。過去の傷から抜け出せません。もしイスラエルの民族が過ぎ越しの血を受け入れた後にも、エジプトでの生活に固執したらどうなったでしょうか。もし放蕩息子が、父のゆるしを受けたのちにも続けて遠い国で過ごしたらどうなったでしょう。恵みを受けたにもかかわらず、過去にとらわれて生きるのは愚かなことです。ロトの妻は未練を捨てきれず振り返ったので塩の柱になったのです。
すべてを主にゆだねて前に向かって生きるべきです。救いを受けた私たちは、過去を捨て、私たちの内にいる古き人を脱ぎ捨てましょう。古い感情、古い習慣、古い目的をすべて捨てて、神にゆだねて祈りながら前に向かって勇気を出して歩みだしましょう。過去にとらわれることなく今を感謝しましょう。主が与えて下さった新しい目的に向かって、新年という新しい時間をくださった神様に感謝して歩んで行けますように。
兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。(ピリピ人への手紙3:13)
人間関係も整理しましょう。愛と和解の手を差し出して、主の栄光のために生きていきましょう。人生はそんなに長くありません。人生のチャンスは数少ないのです。この牧師も、もうこんな歳になったかとつくづく思います。人生は霧のようなものです。「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」(ヤコブの手紙4:14)
だからこそ、主が与えて下さった時間を大切にしながら、そばにいる家族や親しい人に良い思いを持ち、愛を分かち合いましょう。エジプトを離れ、祝福のカナンに向かって歩みだせる力と、勇気と、愛を神様が注いでくださることを主の御名でお祈りいたします。
以上