人生は神様から与えられたテストであり、その人の気質、信仰、従順、愛、正直さを神様は事あるごとに試しておられます。神様は日々あなたにふさわしいテストを用意され、あなたがその場面場面でどのように反応するかご覧になっているのです。
サレプタという町に、貧しいやもめ(夫を亡くした女性)が住んでいました。ある日、見知らぬ男がやって来てこう言いました。「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」彼女が水を持ってこようとすると、男は「手に一口のパンを持ってきてください」と要求します。しかし、3年半に及ぶ飢饉に苦しむ中、やもめの家にパンはなく、かめの中に一握りの粉と少しの油が残っているだけでした。彼女は言いました。「今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」
ところが、そんな気の毒な事情を聞いておきながら、この男は「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。」と重ねてパンを要求したのです。
この無礼な男は誰でしょうか。あの偉大な預言者エリアです。エリアは神の御言葉に導かれてやもめの所にやってきました。貧しいやもめはエリアの無礼な要求に対して言われたとおりに従いました。すると、彼女に驚くべき恵みがのぞみました。エリアがそうなると言ったとおり、カメの粉とビンの油が尽きなくなり、飢饉から救われたのです。
エリアは、イエス・キリストに重ねることができます。イエス様もある意味で無礼な要求をされた方でした。例えば、ある漁師に「舟と網を捨てて私に従ってきなさい」と無礼な要求したところ、イエスの言葉に従った彼らはイエスの弟子になるという栄光ある素晴らしい恵み受けたのです。神の御子であるイエスは、受肉して人となってこの世に来られました。それは、私たちを罪から救い、神の子として天国で永遠に生きるようにするためです。サレプタのやもめがエリアの言葉に従順したように、イエス様からの要求をアーメンと言って従順して受け入れる者には大きな神の恵みが与えられます。
イエスの母マリヤも、突然天使がやって来て「あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。」と言われたとき、「お言葉どおりこの身に成りますように」と従順してキリストの母となる恵みを受けました。
イエス様の無礼に思える要求の背後には、大きな愛と恵みがあふれています。イエス様の御言葉に従う者は、それを受けることができます。反対に、イエス様の要求を断るなら、神様の恵みも愛もその人から離れていくでしょう。
その実例が、ルカによる福音書4章に記されています。イエスの生まれ故郷ナザレの人々は、イエス様を救い主として迎え入れることができませんでした。彼らはイエス様を子どもの頃からよく知っていましたので、イエスをただの大工の家の子せがれだと考えていたからです。そんな彼らにイエス様がこう言われました。
よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、 エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。(ルカによる福音書4:25-26)
これを聞いたナザレの人たちはみな憤りました。自分たちよりも異邦人(サレプタのやもめはユダヤ人にとって異邦人でした)が優遇されるのは許せないと思ったからです。そして、彼らはイエス様を町の外へ追い出して丘のがけまで引っ張っていき、そこから突き落とそうとまでしました。しかし、イエス様は彼らの真ん中を通り抜けて、去って行かれました。
私たちに福音が伝えられたことは特別な神様の恵みです。イエス様が私たちの人生の扉をノックしてくださった、この特別な瞬間に私たちがすべきことは、イエス様を心の中心にお迎えすることです。魂の救い主して、人生の主として、イエス様を受け入れることです。そして、無礼に感じる御言葉にも喜んで従順するのです。そうすれば想像できないほど大きな恵みを受けることができるでしょう。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。(ヨハネによる1:12)
イエス様が、私たちに無礼な要求をする前になさったことを忘れてはなりません。イエス様は私たちのために十字架の上で血を流し、むごい死を受け入れられたのです。その十字架の死によって、私たちは罪から救われて永遠の命が与えられたのです。世の中には二種類の人がいます。キリストを拒否する人と、キリストを迎える人です。迎える人ははるかに少ない。狭い道を行く人ははるかに少ないのです。私たちを狭き門から入るようにしてくださった神様に感謝します。主は今も私たちを訪ねて来られます。昼も夜も瞬間瞬間に私たちのところに来てくださるお方なのです。
みなさん、人生は一時的な務めです。聖書は言います。われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。(詩編90:10) 霧のようにしばしの間あらわれ、いつ消えるかわからないのが人生です。また、人生は預かり物です。神様が人生の終止符を押されたとき、所有していたものは人の手にすべてわたっていきます。
しかし、主は言われます。「わたしは主であって、あなたをいやすものである」(出エジプト記15:26)「その右の手には長寿があり、左の手には富と、誉がある。その道は楽しい道であり、その道筋はみな平安である」(箴言3:16-17)聖書の人物の平均的な寿命は120歳です。モーセは120歳まで生きました。アメリカの最新のDNA研究では、人間の体は元気で120歳まで生きられるようになっているそうです。飢饉が終わるまで、やもめの家にエリアがとどまっていたように、この険しき人生の旅が終わり永遠なる神の御国のとびらが開いて迎え入れられるその日まで、イエス様がいつもあなたと共におられますように。
以上